1844_キリスト教のワンネス神観 | イエスの名によるバプテスマを施した弟子たちの神観は?

弟子たちの書簡

昨日はワンネスというキリストの教義に関して書きました。イエスの名によるバプテスマの方法に関しては聖書に4か所も記述が確かにあるので誰も否定できないと思います。しかし、僕はわざわざそれをワンネスという神観に落とし込む必要が果たしてあったのか、疑問があると書きました。

それには理由があります。確かに弟子たちはイエスの名によるバプテスマをしていましたが、彼らの書簡を読んでいると、彼らが果たしてワンネスという神観を持っていたのかどうかがわからなくなるのです。

書簡の冒頭

多くの場合、ワンネス神観を持っている人は「天の父」という表現をあまり使わない傾向があります。それはイエス様も天の父ととらえるからです。しかし、弟子たちの書簡を見ると彼らは明確に天の父とイエス様を分けて記述しています。復活したイエス様に劇的に出会ったパウロは書簡の挨拶で必ず、父なる神とイエス・キリストの二者を記述しています。

コリント人への第一の手紙 1:3
わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

コリント人への第二の手紙 1:2
わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

エペソ人への手紙 1:2
わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

エペソ人への手紙 6:23
父なる神とわたしたちの主イエス・キリストから平安ならびに信仰に伴う愛が、兄弟たちにあるように。

テサロニケ人への第二の手紙 1:2
父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

ピレモンへの手紙 1:3
わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

以上の理由により、僕は天の父もイエス様というワンネス神観に違和感を持っています。

よみがえらせた

さらに、弟子たちの書簡にはイエス様は天の父によってよみがえらされたと書かれています。イエス様は神様に他なりません。それでも、イエス様は復活されたのではなく、神によってよみがえらされたと聖書には書かれています。これはイエス様の神性を否定するものではなく聖書がわざわざそのように表現しているのです。

ガラテヤ人への手紙 1:1
人々からでもなく、人によってでもなく、イエス・キリストと彼を死人の中からよみがえらせた父なる神とによって立てられた使徒パウロ、

使徒行伝 2:24
神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである。イエスが死に支配されているはずはなかったからである。

使徒行伝 2:32
このイエスを、神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである。

ローマ人への手紙 10:9
すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。

コリント人への第二の手紙 4:14
それは、主イエスをよみがえらせたかたが、わたしたちをもイエスと共によみがえらせ、そして、あなたがたと共にみまえに立たせて下さることを、知っているからである。

神観に関して

最初に書いておきますが、僕は天の父も御子も聖霊も神様だと信じています。ただ書簡を見ると、弟子たちは神観という意味では天の父と御子に重点を置いているように思うのです。もちろん、聖霊が否定されることは決してありません。それは使徒信条にあるとおりです。

ただ、この地上では天の父もイエスさまも見ることはできません。だからこそ、実際的な信仰生活、実運用では必ず神である聖霊が必要になります。その聖霊に対して聖霊様と呼ぶかどうかは人それぞれです。しかし僕は、何度も書いているとおり、イエス・キリストと父なる神に重点をおく神観がしっくりきています。