人を裁くな
聖書では明確に人を裁くなと教えられています。
マタイによる福音書 7:2
あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
しかし、キリスト教内では裁くことがごく当たり前になっています。キリスト教界隈は裁くこと、不平不満、罵詈雑言、ねたみ、そねむ、うらみ、つらみに満ちています。SNSはその傾向が強く、自分にとっては害しかないと考えたのでアカウントは数年前に削除してしまいました。
誰も裁く資格などない
たとえば、教会の指導者が法に抵触することをしたとします。その場合、当事者を裁くのは法であり、また神です。にもかかわらず、キリスト教会では鼻息荒く、その指導者にみならず、その教会の教団全体をすら裁くことがあるのを見ます。しかし、裁く権利はあるのでしょうか。
ローマ人への手紙 2:1
だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。さばくあなたも、同じことを行っているからである。
もちろん、法に抵触することはしていないかもしれない。しかし、だからと言って、それがその人に誰かを裁く権利を与えるわけではありません。なぜなら、律法の一つでも犯したらなら、その全体を犯したことになるからです。つまり、誰も裁く資格などないのです。
少し想像してみると
たとえば、海外のメガチャーチの指導者がスキャンダルを起こすことがあります。その場合も当然、当事者を裁くのは法であり、神です。外野は誰も裁く権利をもっていません。ましてや、イエス様の尊い十字架の血潮によって罪許されたクリスチャンと言われる人がなぜ人を裁くことをするのでしょうか。
何度も書きますが、自分がそれをしていないからと言って裁く権利が与えられるわけではありません。少し想像してみるとわかります。たとえば、もし僕がどこぞの教会の指導者になって大きな影響力をもったら、僕は同じ過ちをしないと自信をもって言えるでしょうか。
赦すことができるのも神
キリスト教界隈で起こる問題に関して、法に抵触した人が法や神に裁かれるのは免れることはできません。それは人は自分が蒔いたものを刈り取る原則があるからです。これは自分に対して書きますが、裁く人は同じくらい恥ずかしいことをしているとことを自覚しないといけないと思います。
誰も人を裁く権利はありません。地上で唯一許されているのは法です。終局それができるの神だけであり、さらにそれを赦すことができるのも神だけです。そこに人間は関与すべきではありません。













