1618_ジョージソロスの「誤謬不可避性」や「均衡の喪失」について

哲学者でもある

最近、ジョージ・ソロスの書籍を読みました。彼は巨額の富を得た投資家として有名ですが、哲学者でもあります。彼の哲学はポパーの影響を強く受けており投資にマーケットに限定されるものではなく、人生において汎用可能なものです。

有名な考え方に再帰性理論や誤謬不可避性や均衡の喪失などがあります。彼はアメリカのキリスト教右派に対していい印象をもっていなかったようですが、誤謬不可避性は人を謙遜にします。またクリスチャンである僕には罪を思い起こさせます。実は僕が好きな経済学者であるハイエクもポパーの影響を受けたと何かの書籍にありました。

客観的に存在するものはない

情けないながら僕は何度読んでもソロスの哲学がしっかり理解できません。僕の浅い理解によれば彼の考えはこういうものです。この世界でどれだけ社会科学が発達したとしても客観的に存在するものはない。なぜなら、そこには客観的に存在するものを評価する不完全な人間が含まれるから。また、その評価者である人間は誤りを避けることはできない。そして、評価者自身も客観的に存在しているものの中に含まれている。

簡単に言えば、人間は間違いを犯す存在であり、見ている事実に自分の間違いが反映されるので、それは何も客観的ではないということだと今は理解しています。そして、存在する事実に自分も含まれているので、自分の判断や意思決定がその事実に影響を及ぼし、それが再帰的にループしていくということのようです。間違っていたらすいません。

説明する必要はない

僕がソロスに引かれる理由は彼の投資的側面ではなくて、彼の生き方や考え方に惹かれるからです。彼は第二次世界大戦の時にハンガリーで生まれます。その時はハンガリーがナチスに占領されている時でした。彼は生きるか死ぬかの経験をしています。彼はその当時の自分のことを均衡性の喪失と言っています。

彼はこのように言っていました。文章は引用ではなく僕がこのようなことが書かれていたというので要約しています。

「クローズドな国、たとえば共産主義の国の人々に民主主義はこのようなものだと説明する必要はない。なぜなら、彼らは今ある制約の中で自由というものがどうものかを知っているからだ。しかし、既に民主主義の国の人は、自由がどういうものなのか、正しく理解できていない。」

皆、過ちを犯すものだ

僕が学んだことは、まさに均衡の喪失です。僕は生まれた時から民主主義、自由、平和の国で生きていますが、その逆の環境を知りません。だから、頭ではこれら概念の尊さがわかっていても、切実さをもって理解することはできていません。そこで彼は人間は皆、過ちを犯すものだという前提に立ち、オープンソサイエティーという概念を打ち出しています。

今日はここで終わりますが、また時間がある時にソロスについて書きたいと思います。

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