1859_主と共に歩む中で上がってくるビジョンの解像度 | なぜ求め続けるのか?

楽して生きたい

昨日は主から与えられるビジョンについて書きました。僕が17歳で救われる以前は生きている意味がわからず幼稚園の頃から無気力に生きてきました。幼稚園年長にして楽して生きたいという理由だけで将来の夢に「社長になりたい」と書いていたのです。

小学生になってからも社会不適合者でした。自分が納得する理由がなければ取り組めない体質だったのです。なぜ算数を勉強するのか?漢字が書けるようになって何か意味があるのか?何のために九九をするのか?いちいち自問する中で「意味がないよね」と結論を出し勉強を全くしない子供になってしまっていたのです。

神に愛されている

しかし、主に救われてから生きる意味がわかりました。まず第一に神に愛されていることが僕が生きている意味だとわかったのです。そして、それだけではありません。僕が主を愛し、主のために何かすることをゆるされ、さらに主の似姿にまで変えられるという驚くべき道まで示して頂けました。

救いの体験を通して生きる意味を見出したのです。しかし、実際これらは抽象度が高すぎます。実際に自分の実生活の行動にまで落とし込んでいくには、主から直接教えてもらう必要があります。それこそが、昨日書いた「主から与えられるビジョン」です。

主が支配しておられる

昨日は、今も主から与えられたビジョンに向かって歩んでいると書きました。しかし、そうとは言っても、まだ全景が見えているわけではありません。昨日も書いたようにパズルのピースが集まってくる、点と点が繋がって線になるような感覚です。つまり、大まかな方向に向かって歩む中で解像度が上がってくるというようなものです。

そして、重要なことはパズルも点も主が支配しておられるということです。僕が言いたいことはビジョンが与えられて、それで終わりではなくて、常に求め続けないといけないということです。主との親密な関係の中で主の導きの中でパズルのピースが追加されたり、点が撃ち込まれていくのです。

肉の思いは反する

だから僕は日々、自分のビジョンのためにも祈っています。なぜなら、そうしないと僕は日常の引力に負けてしまい、ビジョンを忘れてしまうからです。主から与えられたビジョンと肉の思いは反します。主のビジョンにいつも焦点を合わせないと「すぐにもういいや」となってしまいます。

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