ビジョンがなければ民は滅びる
聖書には「幻のない民は滅びる」(箴言29:18・欽定訳)という言葉があります。教会生活を送っていると、このようなことが言われることがあります。それは「主からビジョンを与えられましょう。」というような内容です。聖書は、主から与えられた幻、ビジョンがなければ民は滅びる、別訳ではわがままに振る舞うとあります。
主からビジョンが与えられることと自己啓発的な目標設定は似て非なるものですが、自己啓発でさえ目標がなければ人はわがままに振る舞うのではないでしょうか。目標がないということは、嵐が吹き荒れる海に浮かぶアンカーのない船と同じです。流されるままにながされてしまうのです。
流されるがままに
これは実体験からもそう言えると思います。まず自己啓発の領域で僕が目標設定をしていなかった時は本当にアマゾンプライムやYoutubeやスマホゲームに時間を溶かしていました。目標設定がなければ可処分時間を自由に使えてしまいます。流されるがままにその場その場で時間を浪費してしまうのです。
そして、霊的領域についてもそうです。主から頂いたビジョンがなければ惰性で信仰生活を送ってしまいます。とりあえず、教会に行って、什一献金して、しんどくならない程度にそこそこ奉仕していればいいとなっていたのです。
しかし、主からビジョンが与えられると生き方がそっちに向くようになります。それは目標設定をしたとたんに無意識に体がそちらに動き始めることと似ています。
ビジョンに生きる
問題は「どのようにしてビジョンを主から頂くか?」です。僕は大学受験に失敗し浪人生活を送っていた時期、自分が本当に何をしたいのかがわかりませんでした。とりあえず、大学に入って法学部か経済学部かそのあたりに入れたらいいかなと思っていたのです。
しかし、「主よ、ビジョンを与えてください。」祈り続けました。明確に「これが道だ。これに歩め。」と言葉があったわけではありません。ただ、浪人時代に読んだ一冊の本で僕の人生は決まったのです。それは「中国」でした。
ビジョンを与えられて以降、2025年に中国から帰ってくるまでは、そのビジョンに生きてきたと思います。
人生をもう二度と無駄にしない
それから10年ほど経過し、僕はまた新しいビジョンを与えられてそれに向かって奮闘しています。「主よ、ビジョンを与えてください。」と祈る中で、主は少しずつ景色が見えるようにしてくださっています。それは、わずかなパズルが時間の経過ととも少しずつ集まって絵が出来上がるのにも似ています。点と点が繋がって線になることにも似ています。
与えられた人生をもう二度と無駄にしないためにも主のビジョンに向かっていきたいと願っています。













