1733_刺激主義や感覚主義を信仰していた時期

インプット主義

僕は元来、刺激主義や感覚主義を信仰していたので自分の感じることがすべてだと思って生きてきました。それは言いかえればインプット主義であり五感を通して感じるものこそが大切と思っていたのです。特に音楽や絵画などにはまっていました。おおよそ20代前半はその様な生き方をしていたと思います。

しかし、20代後半あたりからようやく考え方が変わってきました。それにはいくつかのきっかけがあります。一つは7つの習慣という書籍を読み、刺激と反応の間には空間があるということを知ったからです。

7つの習慣の原則

これまでは外部からのインプットに対する直感的なアウトプットは変えられないと思っていましたが、その間には空間があり、自分で変えられるということを知りました。つまり、普通、悲しい出来事というインプットがあれば「悲しい」という感情がアウトプットされるものですが、そのアウトプットさえ変えられるというのが7つの習慣の原則の一つです。

それ以外にもきっかけがあります。それは、20代後半から中国の漢詩にはまったことです。漢詩は見れば紙に印刷されたほんの二十文字ほどの漢字でしかありません。それでも一度読み始めると、空気の匂いや時代の手触り、果てしない歴史の広がりが立ち上がってきます。僕はほとんど初めて文字の力に圧倒されたのです。

イエス様との個人的な関係

そして、最大のきっかけは聖書が自分個人に語られているとわかったからです。確かに聖書は神が特定の人を通して神の霊感によって書かれたものです。しかし、僕にとっては、ただのありがたい言葉であり、ただの知識に過ぎなかったのです。僕にとって聖書は決して夢中になれるものではありませんでした。

しかし、いざ、イエス様との個人的な関係ができると、聖書の言葉を始めて自分事として受け入れられるようになりました。

文字や言葉

上記のようなきっかけがあり、今は自分の感覚や刺激よりも文字や言葉こそを重視しています。自分の感覚は毎日変わります。それは環境や状況によって大きく変化します。しかし、言葉だけは客観的にそこに存在しているのです。僕は自分の状況がどうあっても、言葉を自分の口で告白することによって自分を制御しています。

それにより感覚主義であった時の自分よりも人生はだいぶ安定するようになったと思います。

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