何も考えたくない
先日、懸垂できるトレーニング器機を購入しました。それは数週間前からランニングしたり筋トレを再開したからです。再開した理由はいろいろあるのですが、いちばん大きいのは何も考えたくない時に運動はいいと思ったからです。特に子どもの死を経験してからその傾向は強くなっているように思います。
もっとも手軽に現実逃避できる方法はスマホでしょう。興味のあることを入力すればほとんどいつまでも楽しむことができます。クリスチャンであれば、スマホに現実逃避しても逃避にならないということはわかっています。なぜなら、深い主との祈りの交わりこそが、正しい避け所だからです。
健全な現実逃避
きっと運動であれば比較的、健全な現実逃避にはなるでしょう。じゃあ、運動は現実逃避のためか?と聞かれればそういうわけでもありません。僕が再び運動するようになったのは僕の生死観が大きく変わったからです。ようは健康な身体を維持したいと思うようになったのです。
確かに人の命は主の御手に握られており、使命を果たした時に天に召されるという考えは変わりません。しかし、自分の身体に関しては管理するように委ねられています。その点を無視して、自身の生活習慣に気をつけないのは違うと思いました。
以来、食生活や運動について気をつけています。まだこどもが小さいので自身が病気をして死んだりするわけにはいかないと思ったからです。
「生きている」ということを感じる
他にも理由があります。それは狙って大量の汗をかけるという点です。1日の大部分、屋内にいるので汗をめいっぱい書くという体験が少なくなりました。せいぜい、徒歩で移動時に汗をかくくらいです。しかし、運動となると積極的に大量の汗をかくことができます。その時に僕は「生きている」ということを感じることができます。もちろん、クリスチャンであれば深い主との祈りの交わりの中において「生かされている」ということを体験すべきだと思います。
しかし、このブログで何度も書いているように、人は身体、精神、魂(霊)をもって生きているので、そのいずれもかかすことができないということです。祈りにおいて霊が生きていると感じるがごとく、身体においても「生きている」ということを感じるのが健全だと思ったのです。
もぬけの殻のようになる自分
なぜ、「生きている」ことを感じたいのか?それは心のダメージが大きすぎたので、もぬけの殻のようになる自分がいるからです。そういう時に運動はいい影響を心に与えてくれていると感じています。