人生がもったいない
2日連続「戒めを守る」ということについて書きました。では、なぜ聖書は「戒めを守る」ことを教えているのでしょうか。弱いままの状態で、イエス様の十字架の血潮によって罪が赦され続ける生き方ではだめなのでしょうか。もちろん、ダメではありません。この地上で肉において僕たちは弱いままです。
しかし、主は弱くて敗北して何度も悔い改める人生から勝利の人生への道を開いてくださったことも真実です。もし、その主がしてくださったことを見逃すならば、その人生はもったいないと思うのです。
なぜ戒めを守る必要がある?
何度も失敗して「あー私はだめな人間だ」と悔いて悔いて赦され続ける人生と、時に失敗することはあっても主が共にいてくださることによって「私は主にあって勝利できる」と信じて勝利し続ける人生とどちらがいいでしょうか。後者に決まっています。僕はずっと前者だったので、なんとか後者のクリスチャンになりたいと奮闘しています。
この記事とつながる読みもの
冒頭の質問にもどります。なぜ聖書は「戒めを守る」ことを教えているのでしょうか。それは僕たちが聖くなるためです。聖書にはこのようにあります。
テサロニケ人への第一の手紙 4:3
神のみこころは、あなたがたが清くなることである。
テサロニケ人への第一の手紙 4:7
神がわたしたちを召されたのは、汚れたことをするためではなく、清くなるためである。
ヤコブの手紙 4:8
神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。罪人どもよ、手をきよめよ。二心の者どもよ、心を清くせよ。
なぜ聖くなる必要がある?
では、なぜ聖くなる必要があるのでしょうか。それは神さまご自身が聖いお方だからです。創世記で神は人間をご自身に似せて創造されました。それは霊的な存在として、関係をもち交わる存在として、そして聖い属性にあずかるためです。この肉体のことを言えば、1日風呂に入らないだけで不快感を感じるのに霊の体のことでは鈍感な人が多いと思います。まさに僕自身がそうです。さっさと悔い改めればいいものをねちっこくて苦々しい思いをいつまでも心に滞留させていることがあるのです。
もし僕が主の前に出ないならば、そのことにすら気づくことはありません。だからヤコブはこのように言っています。「神に近づきなさい。」
神に近づかない限りは自分の汚さすら自覚できないのです。これは僕のことを言いますが汚い豚小屋にいる豚同然なのです。しかし、神に近づく時にその聖さにあずかり、そして、すべての肉なるものに注がれる聖霊が心を洗ってくださいます。
世界が美しく見えた
僕が聖霊に満たされる経験をしたときに一つの変化として、世界が美しく見えたということがあります。罪が赦された実感と確信、聖なるものに満たされている喜び、そしてその状態で世界を見るときにすべてが輝いて見えるのでした。これは中国の家の教会に初めて行ったときにも経験しました。聖くなることはいいこと尽くしだと思うのです。だからこそ主の戒めを守りたいと思います。
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