自己否定が始まる瞬間 | 神を愛するとは?

戒めを守ること

昨日は「戒めを守ること」について書きました。そして、旧約の時代は義とされるために戒めを守る必要がありましたが、新約の時代は主を愛するがゆえに神の戒めを守りたいと思うようになったということも書きました。つまり、「戒め」と言っても旧約と新約とでは動機が全く違います。

そして、愛の人と言われたヨハネは一見以外とも思わる御言を残しています。

ヨハネの第一の手紙 5:3
神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。

神を愛するとは

神を愛するとは「礼拝することである」とか「賛美することである」とか「祈ることである」とか「献金することである」とか言わなかったのです。もちろん、彼が書いた戒めにはこうったことが含まれているでしょう。しかし、僕自身のことを言えば、「主を愛する」と言えば、なんとなく礼拝をイメージしていることが多いと思ったのです。

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そして、日曜日はしっかり礼拝して、あとの平日は自分勝手に生きるというような二心の生き方を長くしていたのです。しかし、この御言に真剣に向き合うようになってから、戒めを守りたいと思うようになりました。そこからすべてが変わってきたように思います。

つまり、聖書に書かれている超ハードルが高い、人間にはできないような戒めを守れるようになりたいと思った瞬間から自己否定が始まるのです。到底自分にはできない。むしろ、訓練の中でどんどん自分の憎さが露わになってくる。だから、この戒めを守るには主がいなければできない。いや、むしろ、僕の中に住んでくださるイエス様がされるのだ。と思うようになってくるのです。

その戒めはむずかしいものではない

とっても嫌なことを書くかもしれませんが、ヨハネが言ったように聖書の戒めを守りたいと決意しない限りは自己否定などおきません。なぜなら、自分の力で生きていけるからです。しかし、聖書を読み、それを血肉と化し、御言に向き合ってチャレンジしていくなら、主はその心と必死さを見てくださいます。なぜなら、この決意と心と必死さが主を愛することの現れだからです。

僕は情けないながら、まだ「その戒めはむずかしいものではない」という境地に達していません。自分の弱さ、高慢さ、キツさにあきれるばかりです。しかし、主を愛したいという思いは変わらないので、その愛を動機として神さまを求めていきたいと思っています。

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