1791_戒められことこそ最高

自分が戒められる

最近、デボーションの中で教えられていることがあります。それは、自分が戒められるべきことを聖霊によって示されて、それを言語化し祈りの中で助けを求めることこそが、聖められてく過程であるということです。

僕は、かつて「主と似た者になる」や「聖められる」という言葉を聞いた時にこのようなイメージを抱いていました。それは、恵まれた礼拝に参加して聖霊の優しさに包まれて、心に主がいて下さっていることを確信している状態です。

保ち続けることは容易ではない

ここで僕は自分に対して厳しいことを書かなければなりません。正直そのような状態は長くは続かないのです。そのような状態が永続的に続くのであれば日本にとっくの昔にリバイバルが起こっていることでしょう。

日曜日にたとえ恵まれたとしても、それは長くは続かないのです。それはこのブログでも何度も書いてきましたが、恵みを受けるのは簡単ですがそれを保ち続けることは容易ではないと書いたことと同じです。

このままではいけない

月曜日からは学び、仕事、家事が始まります。そのような日々の中で行われるデボーションこそが自分を聖めていってくれるのだと思います。なぜなら、日常は摩擦で満ちています。ストレスで満ちています。イライラすることで満ちています。僕たちは一歩外に出て仕事を始めれば、ストレスなしで生活することが難しい世界で生きています。

そのような中でも素晴らしいことがあります。一つはそのような中にある心の状態を教えてもられるということです。聖霊が「ストレスで疲れているよ」とか「イライラいしているよ」と明確な言葉で教えてくれるわけではありませんが、「このままではいけない」と思わせてくれます。

御言が戒めてくれる

これは僕にとって戒めです。ある時は聖書の御言が戒めてくれることもあります。これは聖書の言葉の明確な効能の一つです。

テモテへの第二の手紙 3:16
聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。

戒められたあと、次のアクションはほとんど「助けてください」になります。あるいは、「私にはできませんが、あなたにはできます。」という信仰告白になります。そうすることで戒められて正しい道へと導いて頂けるのです。

主にあってはできる

当たり前ですが自分の力で義の道を歩むことは絶対にできません。それは義人はいないからです。しかし、主にはできます。僕自身は日々感謝の心で主の愛をもって人々に仕えることは絶対できません。しかし、主にあってはできます。すべては主のおかげです。

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