1919_主に出会うということは礼拝中に恍惚感を味わうことなのか? | 御言に立つこと

対面かオンラインか

コロナ以降、仕事においては対面かオンラインかを簡単に選択できるようになりました。それぞれ良し悪しあります。ビジネスでは効率が優先されるのでオンラインとの親和性が非常に高いです。しかし、ビジネスにおいても感情に関わってくるものに関しては当然、対面のほうがよくなります。

ビジネスは合理的で、かつ理性的に進められるものでもある一方で感情も大きくかかわっています。とくに重要な意思決定、重要な説明などは信頼関係が大切であり、真摯、かつ嘘偽りのない開かれた心も必要となります。その機微に関してはオンラインでは伝わらないことが多いのです。

気難しいケチな主人

主との関係はどうでしょう。主との関係も対面で会わなければ関係は強くなりません。対面で会わなければ関係は希薄化します。霊的に対面で会わなければ、あらぬ神観が形成されてしまうのです。

もし対面で主と合わなければ、1タラント与えられた僕のように主人は気難しい方だと思うようになります。もし対面で主と合わなければ放蕩息子のお兄さんのように、僕の為には子羊一匹屠ってくださらなかったと文句を言うようになります。

知識の上での「神は愛」

だからこそ、主に霊的に対面で会う必要があります。そうしないと本当に主は畏れ敬う対象以上に、怖い方、裁く方、裁きを与える方、無関心なお方、愛のないお方だと思い込んでしまうようになります。もちろん、知識の上では「神は愛」と言うことを知っていても、それが自分の人生に成就しなければ知識はただの知識のままです。何の影響力も力もありません。

こう書くのは僕はいつでもそうなる可能性があるからです。僕は主ご自身をそのように思っていた時期がありました。また昨年、次男が天に召されてからも「これは僕に対する裁きなんじゃないか」、「これは主が僕を憎んでいるのではないか」など思わないことがなかったわけではありません。

御言に対する信仰に主が働いてくださる

そういったあらぬ神観から解放されるためには聖書の御言に立ち返るしかありません。聖書はどのように言っているのか?そして、聖書の上に自分は立つのか?を決意しないと、簡単に押し流されてしまいます。そして、その御言に対する信仰に主が働いてくださるのです。

主と霊的に対面で会うということについて、僕は深く満たされる体験をしたり何か礼拝や祈りの中で恍惚感を味わう必要は必ずしも必要ないと思っています。なぜなら、御言こそが神様であり、その御言を握り宣言する時に主はそれをとらえてご自身を現わしてくださるからです。

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