1909_【批判覚悟】水のバプテスマだけで人は変わるか? | 僕には聖霊のバプテスマが必要だった理由

僕は変わらなかった

今日で聖霊のバプテスマに関することは一旦終わりにしようと思います。

僕が聖霊のバプテスマを強調するには理由があります。これから書くことは申し訳ありませんが、聖書の裏付けがなく主観になります。

僕が聖霊のバプテスマを強調する理由はこれです。水のバプテスマだけでは僕の生き方が全く変わらなかったからです。多くの人の前に立って信仰告白をして証をしました。洗礼証書ももらいました。確かに主の十字架を受け入れて罪が赦されたいという真実な思いをもって水のバプテスマを受けました。しかし、残念なことに僕は変わらなかったのです。これは人によって違うと思うのであくまでも僕の場合がそうであったということです。

怒りにも似た感情

水のバプテスマを受けたにも関わらず、引き続き、罪深いことを考えてしまう。そして罪深いことを言ったりしたりしてしまう。このキリスト教と言われるものはあくまでも観念的なものにすぎず、僕の人格を変えるほどの力はないのだと思うようになりました。

しかし、思春期を経て多感な時期を通りました。今から思えば大したことないことにも関わらず、僕は早くも人生に絶望してしまいました。そこで怒りにも似た感情が神様に沸いてきました。

「おい、お前、本当によみがえって今も生きているんだったら俺にも現れてみろ」というような祈りが始まりました。

中学生時代の祈り

僕の通っていた教会では積極的に聖霊のバプテスマを受けるように語られていました。主の前に出て祈る度にこのように祈っていました。

「よし、今日は10分祈ってやろう。」
(10分後)
「ほーら、やっぱり、お前は生きていないよな。」

本当に中学生の頃はこのように祈っていたのです。神様に対しては明らかに不遜であり、正しい態度ではありません。この言葉の裏には「本当に出会ってくださるなら、こんな僕にも出会ってほしい」という中学生特有の強がりだったのです。僕なりの神様に対する意思表示でした。

僕に出会ってくださったように

そんな祈りを4年間続けた結果、高校2年生の時に聖霊のバプテスマが僕に下りました。僕は主がずっと忍耐してくださっていて、一方的な憐れみによって召してくださったということがわかりました。僕は決して聖霊のバプテスマを受けるにふさわしかった者ではありません。むしろ、聖霊のバプテスマを受けることから一番遠くにいた者だと思います。だから、これはただ主の憐れみによるものです。

CSの説教などを準備する時に僕はこう祈ります。

「主よ。憐れんでください。僕に出会ってくださったように、この小さな子供たちに聖霊が豊かにくだるように。聖霊がくだるのに年齢は関係ありません。あなたは今も生きておられるお方です。主よ。どうか、彼ら彼女らに豊かに聖霊を注いでください。」