異邦人にも聖霊は下る
今日も聖霊のバプテスマのことについて書きます。
一般的に水のバプテスマを受けてから聖霊のバプテスマを受ける人が多いようです。しかし、その限りではありません。なぜなら、聖書にはこのようにあるからです。
使徒行伝 10:47
「この人たちがわたしたちと同じように聖霊を受けたからには、彼らに水でバプテスマを授けるのを、だれがこばみ得ようか」。
なんと、この時には水でバプテスマを受ける前に聖霊のバプテスマを受けたのです。そして特筆すべきことに、それらの人はユダヤ人ではなく異邦人たちでした。これは日本人であるクリスチャンに大きな望みを与えるものです。異邦人にも聖霊は下るのです。
先に聖霊のバプテスマを受ける
先日、ある牧師先生がこのようなことをおっしゃっていました。その牧師先生は教会に来たその日に聖霊のバプテスマを受けたそうです。その瞬間に生きた主に出会う体験をし、価値観が完全に変わったのです。
その証拠に、その牧師先生は水のバプテスマを受ける前に路傍伝道に行って「主イエスは様は救い主です!」と大声で証をしていたそうなのです。これこそ聖霊のバプテスマを受けた証拠の表れだと思います。福音、愛の言葉を大胆に語る現れです。
羨ましくおもうかも
そしてその牧師先生はこのようにおっしゃっていました。
「私が水のバプテスマを受ける前に聖霊のバプテスマを受けたのはただ神様の憐れみです。なぜなら、私は無神論者だったので、聖霊のバプテスマによって生ける主と出会う必要があったのだと思うからです。」
ある人はそのような人を羨ましくおもうかもしれません。パウロがダマスコの途上で劇的に生きたイエス様に出会ったような体験は羨ましみえないわけではありません。しかし、僕は主は帳尻が合うようにしてくださるのだと思っています。
聖書の御言によって生きる
なぜなら、劇的な霊的な体験をした人はその体験に依存し続けたいという願望から離れて、そういった体験なしに信仰によって聖書の御言によって生きるという導きに従う必要が出てくるものだからです。
これは僕が最近はまっている聖書の言ですが、幼子らしい時は聖霊のバプテスマの体験、聖霊に満たされる体験に依存していました。しかし、大人っとなった今はたとえ、そういった体験がなかったとしても聖書の言だけで十分です。
コリント人への第一の手紙 13:11
わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。













