聖霊のバプテスマ
昨日に引き続き、聖霊のバプテスマについて書きます。
教会によっては全く聖霊のバプテスマが語られないことがあります。そして、それゆえに、クリスチャンによっては水のバプテスマによって救われている人もいますが、聖霊のバプテスマを受けていない人は存在します。それは聖書にこのようにあるからです。
使徒行伝 19:2
彼らに「あなたがたは、信仰にはいった時に、聖霊を受けたのか」と尋ねたところ、「いいえ、聖霊なるものがあることさえ、聞いたことがありません」と答えた。
しかし、聖霊のバプテスマは受けても受けなくてもどっちでもいいというものではありません。また曖昧にするものでもありません。聖霊は受ける必要があるものです。なぜなら、教会はそれを受けるように祈ったとあるからです。
使徒行伝 8:15
ふたりはサマリヤに下って行って、みんなが聖霊を受けるようにと、彼らのために祈った。
昭和のペンテコステ派
以上のように、すべてのクリスチャンは聖霊のバプテスマを求めるべきであり、教会はそのために祈るべきであることがわかります。ここで問題となるのが「自分は受けたのか?」と言う点です。昨日も書きましたが、外部が受けたか受けてないかを議論するのは不毛です。
昭和の多くのペンテコステ派は聖霊のバプテスマには異言が必ず伴うとしました。それによって受けたか受けてないかを外野が判断するようになったのです。しかし、異言は賜物であると書かれています。異言は語らなくても聖霊のバプテスマを受けている人は多くいます。
確信がある
大切なことは、本人が自分が聖霊のバプテスマを受けたという確信があるということです。これは僕の実体験にも一致します。なぜなら、聖霊のバプテスマを受けた瞬間から自分の価値観が完全に変わるからです。それは五旬節の日に弟子たちが聖霊を受けて変わったことと同じです。
しかし、僕は自身の不甲斐なさからこのようなそしりを受けることを甘んじて受けなければなりません。
「お前が受けた聖霊が使徒行伝の時代に下ったものと同じなら、そのわざを見せてくれ。あなたの生き方からそれを見せてくれ。あなたの生き方は弟子たちと同じか?」
祈り続けている
僕はペンテコステ体験を経て、2000年前と同じ聖霊が自分にあると宣言しています。にもかかわらず、行いではそれを否定しているのです。これがゆえに、ペンテコステ派が叩かれているのです。だから僕は主の赦しと憐れみによって、日々、悔い改め、変えられ続ける望みをもち、祈り続けています。













