主に対して顔向けできない
僕は教会の奉仕をする時に時々こう思うことがあります。それは「僕なんかを通して主が栄光を現わさなくてもいいのに」ということです。何メンヘラのようなこと言ってんだと思われると思います。しかし、僕は多くの場合、主に申し訳ないと思いながら、また主に対して顔向けできないと思いながら奉仕をしています。
もちろん、僕の心には主が魂を救ってくださったことによる感謝の心、喜びの心があります。しかし、主と共に働きをさせて頂くときに、こんな自分を使わなくてもいいんじゃないかと思うことがあるのです。
若い頃
しかし、若い頃は決してそうではありませんでした。主に用いられていることに喜びを見出していました。主が自分を通して栄光を現わしてくださることに喜びを見出していました。
そして、自分が用いられることを喜ぶ一方で、他人が自分よりも用いられていることを見て、冷ややかな気持ちを抱くこともありました。そのような偏狭な心を持っていたのです。それは間違った姿勢です。ようは自分、自分だったのです。
歳をとるにつれて
歳をとるにつれて僕は主の真実さの長さ、高さ、深さ、広さを知る一方で、自分自身の不真実さを嫌というほど知ることになりました。これは聖書にもある通りです。
テモテへの第二の手紙 2:13
たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である。彼は自分を偽ることが、できないのである」。
僕が冒頭に書いたようなことを思うのはこれが理由です。自分が不真実なのに、イエス様はいつも真実を貫きとおしてくださいます。だから、「僕なんかを通して主が栄光を現わさなくてもいいのに」と思うのです。それは奉仕に関係なく日々の生活における主との交わりに関しても同じです。主はいつも真実なお方です。
真実な心
「そんなメンヘラみたいなことを書くんだったら主に真実を貫き通せよ」という声が聞こえてきます。まさにそうです。これが僕の現在の課題です。僕は主に対して嘘偽りのない、真実な心を回復させたいと願っています。なぜなら、主はそれを求めておられるからです。
詩篇 51:6
見よ、あなたは真実を心のうちに求められます。それゆえ、わたしの隠れた心に知恵を教えてください。













