キリスト教信仰の醍醐味
自分のこれまでの信仰生活を振り返って、僕は教会に毎週行くだけでは現状維持すらできなかったと思っています。なぜなら、おそろしいことにキリストとの親密な関係がなくても教会に行くことはできるからです。またキリストとの親密な関係がなくても聖書も読めるし、賛美もできてしまうからです。だから、自分の行いがあるからといってキリストとの個人的な関係があるとは限りません。
もっとも行いがあることによって信仰らしきものが見える場合もあります。未信者の周りの人からしたら、僕が教会に行くことや聖書を読むことを見ることで何か信仰らしきものを見出すかもしれません。しかし、それはただの宗教行事かもしれないのです。なぜなら、キリスト教信仰の醍醐味は罪の赦しだけではなく、復活したキリストとの出会いと歩みだと思っているからです。
奉仕はすべて霊的なもの
そして、その生きたキリストと共に歩む信仰生活に奉仕は絶対にかかせないと思っています。なぜなら、厳密に言えばキリスト教会における奉仕は何一つ、自分の力ではすることができないからです。ヨハネの福音書でイエス様が「わたしから離れては何一つできない」とおっしゃったとおり、イエス様抜きではキリスト教会の奉仕は何一つできません。
それは教会の奉仕がすべて霊的なものだからです。掃除であれ、受付であれ、印刷のであれ、礼拝に関する奉仕であれ、すべて全きへりくだりと自己否定と主に対する全幅の信頼が要求されます。
聖書的な奉仕
しかし、僕はこのように思っていた時期がありました。それは「自分でできるやん。しかも、自分でやっても問題も何もおきないやん。」と。しかし、できると霊的かどうかは全く別の話です。たとえ、自分の目で見た時にできているように見えたとしても、主が望んでおられるのはそれが霊的かどうかなのです。
一般的に霊的というとスピリチュアルなイメージを抱きますが、霊的とはギリシャ語でロギコスで「御言に属した」という意味があります。つまり、全きへりくだりと自己否定と主に対する全幅の信頼がなければ聖書的な奉仕はできないということだと理解しています。
つい自分の力で奉仕ができてしまう
つい自分の力で奉仕ができてしまうおそろしさがあるからこそ、聖書と聖霊によって教え、戒め、正しくしてほしいと願っています。













