ヤコブの手紙
先日ヤコブの手紙を読みました。ヤコブの手紙は僕にとって強烈な指圧棒で霊的なツボをゴリゴリ押される書物です。つまり、読んでいて痛いと感じるのです。なぜなら、僕は典型的な行動を伴わないに口だけのタイプのクリスチャンだと自覚しているからです。
ヤコブはこの書簡ではっきりとこのように言っています。
ヤコブの手紙 2:17
信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。
机上の空論ではなく現場
この言葉から信仰は実践であることがわかります。机上の空論ではなく現場なのです。某ドラマの名言を借りれば「信仰は会議室で見られるのではなくて、現場で見られるものだ」とも言えると思います。ヤコブはさらにこのように言っています。
ヤコブの手紙 2:18
しかし、「ある人には信仰があり、またほかの人には行いがある」と言う者があろう。それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せてあげよう。
つまり、行いがればそこに信仰を見ることができる。しかし、その逆、信仰から行いを見ることはできないということです。
そこに留まってしまっている
クリスチャンには誰でも信仰があります。唯一のまことの神を信じる信仰です。イエスキリストの十字架によって罪がきよめられるという信仰です。信仰によって義とされていることを信じています。しかし、僕自身がそうであるようにそこに留まってしまっているように思っています。
ヤコブの手紙を読むと、全知全能である神に全幅の信頼を置いて、現場で信仰を働かせているか?と問われている気がしてくるのです。
行動は外に向く祈り
このブログの読者であれば僕が主との個人的な交わりにこだわっていることをご存じだと思います。それも大切ですが、ヤコブが語りかけているのは、「信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。」ということなのです。
僕が問われているのはこのようなことです。職場の人が救われるように信仰を働かせて祈っていますか?近所の方が教会に来れるように積極的に働きかけていますか?知り合いの長年の病のために本気で癒されれるように祈っていますか?
外に向けた祈りをする時に必ず行動は外に向きます。僕は自分が今極度の内向きになっていることを自覚しています。主の前に悔い改めます。













