毎週礼拝できる恵み
僕は神様が人間のために「聖日」を定めてくださって毎週礼拝できる恵みを与えてくださっていることに感謝しています。これまでの人生で何度も「聖日」に助けられてきました。それは礼拝や祈りの中、奉仕や兄弟姉妹との交わりの中に主が確かにおられるからです。
もし、日曜日に教会に行くことが聖書で決められていなかったら、僕は日曜日をどのように使っているたのでしょうか?きっと僕は安きに流されやすい人間なので、前日夜遅くまでゲームやドラマを観て、翌日惰眠や安逸をむさぼったりしていただろうと思います。
教会で過ごす一日の霊的な満足感は教会外で過ごす1000日に勝る
しかし、主は聖書を通して聖日を与えてくださったので、土曜日に夜更かしをすることもありません。だから、日曜日の朝も霊的に引き締まる思いで迎えることができます。
なによりも日曜日が終わったあとの一日の霊的な満足感は、教会外で過ごす1000日に勝ります。心が平安で喜びが満ち溢れます。
だから、日曜日に教会に行かない選択肢は絶対にありえません。これまでの人生で一度も土日を使って旅行に行ったことはありませんが、そもそも日曜日を捨ててまで行きたいなどとも思わないのです。
自発的に喜んで教会に行っていたわけではない
と言っても僕は小さいころから自発的に喜んで教会に行っていたわけではありません。小さい頃は連れて行かれていました。しかし、中高校生となると友人と遊ぶ方が圧倒的に楽しかったので、教会はつまらないところと思うようになりました。それでも両親は僕に「聖日」は絶対に守るように教育しました。僕は反発したい気持ちもありましたが、それを守りました。
僕がようやく自分の意志で教会にと思えたのは高校生2年生の頃でした。当時僕は既に人生を詰んでいたので藁にもすがる思いで主を求めていました。そして、イエス様が本当に生きておられて、共に歩み、祈りの中で交わり、礼拝することができると知ると教会が素晴らしいところと思えるようになったのです。
教会は主を知ることができる場所
ですので、僕の経験から言えば、もし主を知ってしまったら教会は「行かないといけない」ところではなくて「行きたくてたまらない」場所になると思います。
しかし、そうなる前、主を知っていなくても教会には行ったほうがいいと思います。礼拝の中で主は働いてくださり、出会ってくださるからです。教会は主を知ることができる場所です。だから、もし心の中に少しでも主に出会いたいという思いがあるなら、教会に行かれることをお勧めします。