1345_クリスチャン生活の再帰性理論

無教会主義はあり得ない

キリスト教の考えの中には無教会主義と言われるものがありますが、個人的にはあり得ない考え方だと思っています。もしかしたら、ある人は「個人的に聖書の教えを自身の生活に適用したいだけだから教会はいらない」と思うかもしれません。

しかし、もしイエス様と共に歩み、イエス様に従おうと決心するならば教会はオプションではなくクリスチャン生活におって必須になります。なぜなら、イエス様ご自身が教会をお立てになり、教会を通して福音宣教や神様のわざが起こされてきたからです。

どこで主に仕えるのか?

もし、教会という場所がなければどうなるでしょう?神様に仕える時間や場所を自分で探す必要が出てきます。ある人は仕事や家庭を通して主に仕えることができるとおもうかもしれません。確かにそれも大切ですが、もっと大切なのは福音宣教であり、御言が語られることや礼拝に参加することです。

そのように主に仕える場所がクリスチャンに与えられているといことは大きな恵みだと思っています。なにより、クリスチャン生活には再帰性が大切で教会は不可欠なものであると思うからです。

信仰と奉仕

クリスチャンは聖書を読んだり、御言を聞いたりして、信じます。しかし、その信仰はその時点では現実には何の影響も与えていません。信じて行動する時に初めてその信仰が現実に影響を与えるのです。そして、その行動は信仰にも影響を与えます。これが再帰性です。

このように信じることと行動することが双方に影響を与えて正のフィードバックが回り始めることによって成長が始まるのだと思っています。教会はそのような場所を提供してくれています。

神様の方向へ向けてくれる最高の場所

もちろん、「教会というところは結局は人の集まりであまりにも人間的だ。また限られた人数の村社会で煩わしい。」というのもわからないでもありません。しかし、教会と言うところは非常に不思議なところで、弱い人間の集まりの中に憐れみの神様がいてくださるというところです。

神様を信仰しつつも見えるところは人間的な集まりであるからこそ祈りが必要とされます。見えないものに目を注ぐしかなくなります。時には摩擦や軋轢などもあるでしょう。しかし、だからこそ神様の赦しが必要になります。教会は人間を神様の方向へ向けてくれる最高の場所だと思います。

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