日常の引力とは
僕は自分がすぐに日常の引力に引かれてしまってイエス様と共に歩むことから離れてしまいやすいものです。僕にとっての日常の引力とは、言い換えれば自分のやりたいこと、好きなことです。神様第一とわかっていながらも、神さまとの時間をないがしろにして自分の可処分時間を自分のために使いたいと思う引力です。
それは別に一見罪と思えるようなものじゃないかもしれません。たとえば、仕事が終わってからの可処分時間をテレビやSNSを見たり、スマホを触ったり、本を読んだりすることなのです。いずれも罪ではありません。しかし、それには条件があります。偶像になっていなければという条件です。
テレビにひれ伏して拝んでいるわけではない
僕はよくこう思います。別にテレビにひれ伏して拝んでいるわけでもないし、スマホを崇拝しているわけでもない。むしろ本に至っては知識を身に着けるために読んでるから何が偶像礼拝なのだと。しかし、イエス様以外のものを愛するならそれは偶像礼拝になってしまう危険性があります。
愛するということは、それしか目に入らなくなることです。夢中になるということです。求めて慕い何よりも大切だと思うことが愛するということです。
イスラエルよ、聞け。われわれの神、主は唯一の主である。 あなたは心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
申命記 6章4-5節
もっとイエス様を愛せる者になりたい
最近はこのようなチャレンジを受けています。それは、もっとイエス様を愛せる者になりたいということです。現時点での僕とイエス様との関係は、まだ深い愛に根差せていないと思っているのです。もちろん、イエス様はご自身の命を捨てるほどに僕を愛してくださっています。
しかし、魂が贖われた僕は今もなお、霊的な深い領域でまだイエス様を愛せていないと感じています。それがゆえに、僕はすぐに日常に引力に引かれて自分優先、自分第一、マイセルフファーストで生きてしまっているのだと思います。
恵みを無駄にしない
昨日は祈りの時間が自分の回復の時となったと書きました。これは神様の一方的な憐れみと恵みです。もし、僕がこの恵みを軽んじるならきっとその回復はすぐになくなってしまうでしょう。
しかし、神様が与えて下さった恵みを決して無駄にはしないと決めて、回復するだけでおわらず、イエス様を愛してやまない者とさせていただけるように祈りたいと思っています。