1294_神に愛されている事実と今共にいて下さっているかどうかは別

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霊的に弱っていく

教会では聖書は毎日読むものと教えられてきました。その理由としては、聖書は霊的な食物であるためです。この肉体が毎日食事をとらないと活力がなくなり、不健康になったり正常な活動ができなくなると同じく、1日でも読まないと霊的に活力がなくなり、不健康になり、正常な活動ができなくなります。

ここで強調すべきはあくまでも霊的に弱っていくという点です。なぜなら、聖書を読まなくても別におおよその社会生活は通常通り行うことができるからです。普通の社会生活はだいたい肉において行うことができるからです。その証拠としてクリスチャンであっても1日、2日聖書を読まなくてもへとへとになってもう動けないというような状況にはなりません。

自分はイエス様と共に歩んでいると思い込んでいる

確かに肉体においては聖書を別に読まなくても弱ることはありませんが、霊的な命においては聖書の食物は必ず必要です。そうしないと、この世の力に押し流されてしまいます。この世の引力に引かれてしまいます。そして、悔い改めるべきこともわからないようになってイエス様の十字架にも立ち返らないようになります。

ここで厄介なのが別にそのような状況にあっても、自分はイエス様と共に歩んでいると思い込んでいるということです。神様は愛だからこんな僕をも愛して受け入れてくださっていると思うのです。

神様が愛してくださっている事実は変わらない

確かに神様が愛してくださっている事実は変わりません。しかし、愛してくださっていることと共にいて下さっていることは別に考えなければなりません。なぜなら、イスラエルの民は契約の箱さえ戦場に持ち込めば神が共にいてくださって勝利できると信じていたのです。

しかし、結果は戦場に契約の箱を持ち込んだとしても神はそこにはいませんでした。そして敗北を帰して契約の箱もろとも敵に奪われてしまったのです。

僕は教え戒められないと自分勝手に生きる

僕がまだ若かった頃は、自分が神様にいかに愛されているか?を知るために聖書を読んでいたように思います。聖書を読むだけで幸せな気持ちになれました。しかし、年を取った今は、愛されていることを確認するというよりも聖書にあるようにこのようなことが増えたように思います。

聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。
テモテへの第二の手紙 3:16

聖書によって教え戒められることは嬉しいことです。なぜなら僕は教え戒められないと自分勝手に生きるからです。そして、教え戒められることによって、ようやく正しくされて、正しい位置に戻り義に導かれるようになります。

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