主はいつも違った方法で働かれる
奉仕をする時、いつも不思議だなぁと思うことがあります。それは主はいつも違った方法で働かれるということです。具体的な例を出します。ある礼拝である賛美が非常に用いられたからといって次も同じ賛美をしても用いられるとは限りません。人間的に見れば、あの曲は恵まれた成功体験があるので、またその曲を入れたら恵まれるだろうと思ってもたいがい外れてしまうことがあるのです。
それは賛美の奉仕だけにとどまりません。説教の奉仕も同じです。つかみも内容も念入りに準備して祈って自分も恵まれて臨んだとしても、ぱっとしない説教になっていたと思うことがあります。それよりも、むしろ、追い込まれて当日の早朝にわずか30分だけ藁にもすがる思いで祈って準備した説教が非常に恵まれることもあります。
主に主権がある
すべては主に主権があり、主は御心のままにされるということが頭でも経験的にもわかっているにもかかわらず、僕は何度も特定の方法ややり方を見出そうとしてしまうことがあります。準備しすぎることは確かに安心につながりますが、その安心は自分から出ている安心かもしれません。
僕はまだまだ訓練の途中なので、準備することと主にゆだねることのバランスを学んでいる最中です。時には忙しくて時間が捻出でいない時もあります。時には十分に祈って望むことができる時もあります。しかし、そこで主が働かれるかは主が主権をもっておられるのです。
個人的な失敗の経験
最近では、ある奉仕において、祈りこんで主にゆだねてその時に聖霊が語られることを語ろうと望んだことがあります。事前の祈りの段階でも教えられることがあったので、それをベースに奉仕に望もうと思っていたのです。しかし、それは、個人的には失敗だと思いました。
その理由としては、今主が僕を訓練されたいと願っておられることがどこにあるのかを僕はわかていなかったです。その失敗を通して、今自分がどのようなチャレンジを受けているのかが少しわかったような気がしました。
僕は衰える
次回奉仕の時にはまた祈りつつどのように準備すればいいのか?どのような姿勢や態度で備えればいいのか?等試行錯誤して下記御言を心に留めて臨もうと思っています。
花嫁をもつ者は花婿である。花婿の友人は立って彼の声を聞き、その声を聞いて大いに喜ぶ。こうして、この喜びはわたしに満ち足りている。彼は必ず栄え、わたしは衰える。
ヨハネ3:-30