信用できない自分
主と共に歩むようになってから信仰生活とは、全くもって信用できない自分を自覚して、信用できる主だけに頼っていきることだとわかりました。このように書くと簡単なように思います。しかし、厄介なのは古い自分の肉の性質は、知らず知らずのうちに「自分は何者かである」と思ってしまうことです。
なかなか自覚できない理由は、人間は肉的な性質をもっていて自身では気付くことができないからです。ただ人間は霊的な存在でもあるので、その霊的な側面から目を開いて頂かない限り、人間は自分が何者かであるように思ってしまうと考えています。
自分が思っている謙遜
もしかしたら、ある人は言うかもしれません。「いやいや私は本当にだめなんです。自分ほど信用していない人はいません。」と。僕自身そう思っていました。自分は何者でもなく、へりくだっていると思っていたのです。しかし、それは自分がそう思っているだけにすぎない可能性があります。
実際、様々な試練や過酷な状況に置かれた時に、自分が思っている自分の謙遜など風に吹かれるもみ殻のようになくなってしまいます。人間はどこまでいっても自分が大切で自分を愛しているのです。
おかれているところで自分に絶望する
しかし、主にあって様々な試練を通ることによって、霊的な深い領域において、自分は本当に信用できないやつだということがわかることがあります。それはもしかしたら、実際的な試練や困難を抜きにして祈りをしている時に目が開かれて示される場合もあるかもしれません。
しかし、経験上わかっていることは、そういったことはほどんどまれで、日常生活の家庭や職場や教会や地域で、これまで観たことのない自分の一面が見えてきて絶望することがあります。
絶望を死に渡す
その絶望は失望に終わることはありません。なぜなら、その絶望に値する自分は十字架につけて無力化することができるからです。絶望を死に渡すことができるのです。そして、自分に死ぬ時にはじめて主の復活の力にあずかることができます。
わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、
コリントⅠ5:3-4