主の目にかなう生き方をしたのか?
現在は通読で列王記下を読んでいます。前半は預言者エリシャが登場しており物語的に書かれている場面もあり読みやすかったです。後半になると預言者イザヤが登場したりもしますが、基本はイスラエルの王とユダの王の概要だけが記載されて進んでいきます。
誰が王になって、その母親は誰だったのか?また、どのくらいの期間国を治めていつ死んだのか、そのあと誰が王位を継いだのか?などが淡々と記載されています。その中で同じように毎回記載されていることがあります。それは、主の前に悪を行ったのか?先祖ダビデのように主の目にかなう生き方をしたのか?ということです。
主の目にかなう生き方をした者
先祖ダビデのように主の目にかなう生き方をした者の中でも完全にその道を歩んだ者もいれば、正しい道を歩もうとしたが、部分的に悪い行いをしていた王などが登場します。例えば、ヒゼキヤはほぼ完ぺきなほどにダビデのように歩んだと書かれています。
ヒゼキヤはすべて先祖ダビデがおこなったように主の目にかなう事を行い、高き所を除き、石柱をこわし、アシラ像を切り倒し、モーセの造った青銅のへびを打ち砕いた。イスラエルの人々はこの時までそのへびに向かって香をたいていたからである。人々はこれをネホシタンと呼んだ。ヒゼキヤはイスラエルの神、主に信頼した。そのために彼のあとにも彼の先にも、ユダのすべての王のうちに彼に及ぶ者はなかった。
列王記下18:3-5
また、ヨシヤも同じように主の目にかなう生き方をしました。
ヨシヤは八歳で王となり、エルサレムで三十一年の間、世を治めた。母はボヅカテのアダヤの娘で、名をエデダといった。ヨシヤは主の目にかなう事を行い、先祖ダビデの道に歩んで右にも左にも曲らなかった。
列王記下22:1-2
二心の者
一方、主の目にかなう道を歩みつつもその歩みが不十分であった王もいます。例えばヨアシがそうです。
ヨアシは一生の間、主の目にかなう事をおこなった。祭司エホヤダが彼を教えたからである。 12:3しかし高き所は除かなかったので、民はなおその高き所で犠牲をささげ、香をたいた。
列王記下 12:2
このような生き方は新約聖書のヤコブの手紙の記述を借りれば「二心の者」であり、エリヤの言葉を借りれば「あなたがたはいつまで二つのものの間に迷っているのですか。主が神ならばそれに従いなさい。しかしバアルが神ならば、それに従いなさい」の言葉のとおりだと思います。
自分はヨアシだ
僕が列王記下を読んでいて他人事だと思えなかったのが自分はヨアシだと思ったからです。主の目にかなうことをしたいと願いまたそうしていたとしても、一方では高き所を取り除いていないと思わされたのです。
完全に主の道を歩んだヒゼキヤ、ヨシヤのようになりたいと悔いて改めたいと思います。