0571_主を求める時

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神を求める時

クリスチャンには神様を求める時というのがあると思います。僕の場合、神様を本気で求め始めたのは17歳の頃です。それまでは教会には行っていましたが神様ご自身を求めるようなことはしていませんでした。さらに求めるようになったからと言って、17歳以降もずっと同じ熱量で神様を求め続けていたわけではありません。時に追い込まれて叫ぶように祈ることもあれば、自己中心主義に陥って神様をあまり求めないような時期もありました。

困難な時、自分ではどうしようもできない状態になった時に人は神様を求めるかもしれません。それはあまり難しくないように思います。難しいのは求め続けることです。困難な状況、しかも祈っているのに、なぜか状況が変わるどころか、さらに悪くなるといった時です。そこで信仰が試される踏ん張りどころとなるのです。

求める期間

その期間が3日とかで終わればいいのですが、長い場合は数か月、数年と続く場合もあります。僕が10代の頃神様と共に生きると決心した時、この踏ん張る期間はとても短かったです。せいぜい数週間~数か月くらいのものでした。おそらく、神様がこどもの手を取るようにして難易度少しずつ上げてくださっていっていたのだと思います。

大人になってからはその期間がより長くなったと思います。現在では1年~5年とかのような時間の感覚になっています。その踏ん張る期間にいる時はとてもつらいですが、切に主を求める時になります。踏ん張り切ったあかつきには、聖書の約束が確かであることを知り、また見捨てることなく応えてくださる神様であることを知ることができます。何よりも自分がイエス様に愛されていることを深く知ることができます。

求めたあかつきには

なので、聖書で詩篇の作者はこのように言っています。

苦しみにあったことは、わたしに良い事です。
これによってわたしはあなたのおきてを
学ぶことができました。
詩篇119:71

この踏ん張りどころの期間にいることはとてもつらい時期です。それは詩篇の作者がいうように苦しみかもしれません。しかし、そこを通ったあかつきには、それを良かったと思えるほどの結果が待っているのです。

魂の状態

最近、自分が大切だと思っていることは、たとえ大きな問題にぶち当たってなくても、主を切に求め続けることができる魂の状態です。困難なこと、苦しいこと、つらいこと、まぁまぁ人並みにはあるけれど、それなりに生きていけている。しかし、そんな状態にあっても、自分の力に頼るのではなく、魂は生ける神であり、命の源である主家エス様を求める。そのような魂の状態であり続けたいと願っています。

おっさん
■主と求める時は状況に関わらず日々

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