出エジプトしたあと
現在在宅時は通読で出エジプトを読んでいます。今日は30章から35章を読みました。モーセを通して現わされる数々の神の奇跡の連続は、イスラエルの民が紅海を渡るところでクライマックスを迎えてひと段落します。多くの映画などでも紅海を渡る、いわゆる、海割りがクライマックスでエンディングとなっています。
それ以降は少し雰囲気が変わります。神様の素晴らしい奇跡が起きるにもかかわらず、イスラエルの民は水がないなり、肉がないなり、エジプトにいたほうがよかったと神様に不平不満を言ってモーセを困らせるシーンが増えてくるからです。
幕屋や各種道具を作る
今日読んだところはモーセに十戒が授けられるシーンがあります。さらに、幕屋や神に仕えるための各種道具、あるいは祭司が身に着けるエポデの作り方が細かく神からモーセに伝授されています。
正直読んでいてなかなかつらい章だったのですが、今回も教えられることがありました。僕はこれまでイスラエルの民が聖書に書いてある細かい作り方だけ参考にして作ったと思っていました。よく文字だけの情報からあれだけのものが造れたと不思議に思っていたのです。
制作者は神の霊に満たされた
しかし読んでみるとこのように記載されていました。
これに神の霊を満たして、知恵と悟りと知識と諸種の工作に長ぜしめ、工夫を凝らして金、銀、青銅の細工をさせ、また宝石を切りはめ、木を彫刻するなど、諸種の工作をさせるであろう。
出エジプト31:3-5
つまり、聖書に書かれている作り方のマニュアルだけを頼りに作ったのではなくて、神の霊によって導かれて作ったということです。さらにそれを作るための知恵や悟りや知識も神様から与えられたものなのです。それは神がされたことなのです。
神の霊がなければ
これは現代を生きるクリスチャンも同じ事が言えます。大前提として聖書の言こそが、僕たちを教え、戒め、正しくし、義に導いてくれます。しかし、御言を正しく理解したり、悟ったり、行ったりするには、神の霊によるしかありません。そして、それは神が与えてくださり、神がしてくださるものなのです。
もし、イスラエルの民に幕屋の作り方の文字情報だけしかなかったら、きっと作るのは難しかったでしょう。しかし、神の霊が具体的なイメージを与え知恵や知識を与えてくれたのです。百聞は一見にしかずですが、おそらく、神は聖霊を通して、制作者にイメージを見させていたんだろうかと推察しています。
期待に沿えるように
以上のことから、現代を生きる僕にも聖書の言葉と聖霊の両方が同じ重要さで必要です。神様の御心の通りに期待通りに生きるために両方を求めつつ。