0946_サンダー・シングの文章は霊的に本質的なところの一番細くて固い芯を貫いている

サンダー・シングとは

最近は久しぶりにサンダー・シングの書籍を引っ張り出してきて寝る前に読んでいます。サンダー・シングには2年ほど前にはまり関連書籍をほとんど買っていました。サンダー・シングはインド人でもともとはヒンドゥー教でした。当時はイギリスの植民地でキリスト教がすでに入ってきていましたが、激しく反対していたそうです。

ただお母さんの死をきっかけで彼の人生は大きく変わりました。ヒンドゥー教に救いはなかったのです。人生に絶望し自殺しようとしていたまさに日にイエス・キリストに劇的に出会う体験をするのです。そこから彼の生き方は東洋の使徒、現代のパウロと言われているほどです。

様々なエピソード

サンダー・シングが健在の頃、日本にも来たことがあるらしいのですがその時のエピソードがまたすごいです。サンダー・シングはある学校に招かれていました。その学校の学生が教室から外を見て「イエス・キリストがこっちに歩いてきている!」というのです。その人物こそがサンダー・シングなのでした。

イエス・キリストとの交わりが親密すぎて、イエス様の影響が人格や品性や生き方だけでなく容貌にも表れていたそうです。それはまさにモーセが神と語り合ったあと、顔が光っていたのと同じような状況だったのではないかと思います。

そんなサンダー・シングの生き方はとにかくスケールが違います。人から迫害されるだけでなく、何度も獣に襲われたり、暴漢や盗賊や強盗に襲われることもありました。それでも彼は神に守られて生き続けたのです。そして、彼の最後は、山に行くといったきり完全にこの世からいなくなりました。ある人はエノクが天に生きたまま引き上げられたようにサンダー・シングも生きたまま天に帰っていったと言っています。

祈りの霊的なレベルを上げたい

昨日は「人はみな神に帰る」を読みました。目から鱗の本質的なところが語られているだけではありません。霊的な本質的なところの一番細くて固い芯を貫いているのです。一切妥協のない真の生き方から強烈に光が放たれているのです。正直、僕みたいな生ぬるい名前だけクリスチャンで全然キリストのような者じゃない人からすると、月とすっぽんです。

しかし、僕が今サンダー・シングの本を読み始めたことには理由があります。それは祈りの霊的なレベルをもっと引き上げたいという強い願いがあるからです。正直、祈りの霊的なレベルが引き上げられないと神の御わざはそれほど見れません。だから、サンダー・シングになれないのはわかっていますが、そこから少しでも本質的なエッセンスをくみ取って人生に反映させていければとおもっています。

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