0904_Youtubeで説教を何十回と聴いても本人が能動的に祈らなければ不十分

神様との関係が良くない時

神様との関係がいまちいだなぁとか霊的に良好な状態じゃないと感じる時があるかもしれません。そうなると、おおよそ日常生活にも影響が出てくるものです。イライラしてしまったり、冷静に対応できなくなったり、一言で言えば御霊の実を結ばない生き方になってしまいます。

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。
ガラテヤ5:22-23

そうなった時に一番てっとり早い方法が、賛美を聴くということです。Youtubeを開けば様々な良質な賛美を聴くことができます。しかし、この方法の欠点は聴くということは受け身であり、かつYoutubeを開くということは余計なコンテンツも目に入ってしまうということです。

御言を聴く

最終的に賛美を聴くことによって賛美する状態に変わることが理想ですが、賛美は神様との関係が回復していないとできないものです。そこで、次はYoutubeで説教を聴くという方法が考えられるかもしれません。なぜなら、信仰は賛美することにより始まるのではなく、御言を聴くことにより始まるからです。

もしかしたら、説教を聞いて自分に語られていることを痛感し悔い改めに導かれることがあるかもしれません。そうして、祈りに導かれて真に悔い改めることができれば、神様との関係が回復され自分で能動的に聖書を読み賛美できる状態になっているでしょう。

何も変わらない

問題は説教を聞いても何も変わらないと感じる時です。僕自身そういったことがありました。その時に僕が試したことはぐっとくるまでひたすら説教をYoutubeで聴くということです。しかし、僕の頑なな心のせいかまったく変わらなかったのです。

そうなると、受け身の状態で自分を変える手段がなくなります。残された手段は能動的に祈るか、能動的に聖書を読むかの二択です。このように「自らの意志で神を求めること」を求められることがあります。

能動的に求める時

ここまで追い詰められたら、あとは腹を割って自主的に神を求めるしかありません。結局、信仰とは受け身では不十分だということです。また誰かから聞いた話という状態でも不十分だということです。

聖書に書かれている人物はおおよそ、過酷な環境や状況の中で神を見出し、そして自ら求めるようになった人たちばかりです。もし、神様との関係がいまいちだなかとか霊的に良好な状態じゃないなぁと思うことがあれば、一番ベストな方法は自主的に神を求めて祈ることだと思わされています。

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