信仰と行い
最近、説教で聞いたこの言葉が頭に残っています。それは「クリスチャンは行いによって救われるわけではないが、クリスチャンになればクリスチャンらしい生き方になるべき」というものです。「信仰によって義とされること」と「行いのない信仰」に関する議論は常にクリスチャンにとって非常にセンシティブなテーマです。
なぜなら、パウロがゆっているようにクリスチャンは間違いなく信仰によって義とされる者でありますが、ヤコブが言っているように行いの伴わない信仰は意味がないと聖書にあるからです。ルターは信仰義認を復活させた父のような存在ですが、彼はヤコブの書を認めなかったそうです。
信仰によって義とされる
もちろん、クリスチャンの誰もが行いによって義とされるとは思ってはいません。しかし、行いはクリスチャン生活にとって非常に重要です。しかしながら、もし、クリスチャンとして行いが強調されるなら、それがあたかも行いによって義とされるかのように受け取られる危険性をはらんでいます。だから現代の教会では信仰による義は説かれても、行いの伴う信仰についてはあまり説かれない傾向があるように思います。
説教者に行いによって義とされるという意図はなかったとしても、会衆全員が説教者と同じように理解してくれないこともあり、行いを強調することは説教者にとっていつもリスクがあります。もしかしたら、信徒の中で「我々は信仰によって義とされたのだ。行いによって義とされるのではない。」と声を荒らげる人もいるかもしれません。牧師先生にとったら、きっと「だから、そうじゃないんだって」と言いたくなるかもしれません。
クリスチャンのように生きる
救われるためには信仰だけで十分ですが、救われたのちはクリスチャンらしく(キリストのような者として)生きれるようになることを追求し続けるのはクリスチャンの責務です。それは決して義とされるために行いを追求するのではなく、キリストのようになりたいと思う動機に基づくものです。
たとえ、今はいつも自分の中に、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制がなくても、あるいは、情け深さ、妬まない、高ぶらない、誇らない心がなくても、無作法をせず、自分の利益を求めず、苛立たず、恨みを抱かないようにできなくても、それができるように生涯かけて追求していくことです。
キリストに繋がり続ける
しかし、クリスチャンなら誰でも自分自身ではそれができないことは知っています。結論は、キリストに繋がって、キリストとともに生きることです。毎日、キリストを思い、キリスストにたずね、キリストを求め、飢え乾く生き方をするときに主ご自身がそれができるように助けてくださるということを追求し続けることです。
言うは易く行うは難しですが、信仰による義人は生きるということを信じます。