ほしいもの
みなさんは、もし願いが叶うなら何がほしいでしょうか。変わることのない愛でしょうか。尽きることのない喜びでしょうか。巨万の富でしょうか。圧倒的な立場でしょうか。確かにそれらは人間にとって魅力的なものであり、必要なものかもしれません。
僕は以前、イエス様との関係の中でそのように思っていたことがあります。イエス様の愛を感じ続けたい。そして、いつも喜びで満たされていたい。そして、できれば地上でも贅沢とは言わないまでも豊かな生活がしたい。そして、必須ではないけれど、キリスト教会で神に仕える神の器として大きく用いられたいとか思っていました。
ほしいものの実情
しかし、それは昨日も書いたように結局は「自分」主体の渇望に過ぎなかったのです。イエス様のことはさておき自分こそが大切で、自分がどう感じるか、あるいは他人にどう思われるかだけが大切だったのです。口先だけでは主に仕えます。愛しますとは言いつつも内面は「オレガオレガ」の見苦しい性質で満たされていたのです。
じゃあ、今、僕は何を求めるのでしょう。神様に真心から仕える心でしょうか。神様を中心にできる自己否定でしょうか。神様の栄光だけを求めるへりくだりの心でしょうか。それらも僕がほしいものです。しかし、僕がほしいのは表現は難しいのですが、「僕の意志」でそういったことができるようになることです。
自分が無価値であることを知る
それらが実行できる性質を神様から与えられてロボットのように神様に喜ばれる生き方を振る舞うのではなくて、僕の愛を神様に表したくて、自分の意志でそれを選択したいと思うのです。そのために必要なものはただ、一つだと思います。自分が何者でもない無価値な者であると悟ることです。
僕自身は自分を否定して、自分を捨てて主に従っていると思っているだけであって、全くそんなことができていないことを知っています。自分が主の前に無価値であるどころか、「俺は色々できる」とか「あの人よりできる」とか非常に見苦しい臭い汚らわしい性質があるのを知っています。
赤子のような信仰
しかし、もし、自分が神様の前に本当に何者でもないことを霊的な深いところで悟ることができるなら、僕は本心から「あなたがいなければ僕は何もできません」と確信をもって宣言することができると思います。それこそが、本当に私の人生に聖霊様が必要です。という祈りになるのだと思います。
赤ちゃんが両親に全幅の信頼を得るようにそのようなクリスチャンになりたいです。