自分が撒いたもの
日常生活を送っているとこういった言葉に囚われる時があります。「身から出た錆」とか「自分が撒いたものは刈り取る」といった言葉です。この言葉の前に何の言い開きもできません。なぜなら、たとえ能力不足とはいえ、弱さとはいえ、失敗とはいえ、自分の身から出た錆であることは否定できず、また自分が確かに撒いたという過去は変えられないからです。
実は聖書にも似たような言葉があります。もし、聖書の言葉を正しく理解しなければ、聖書の言葉によって苦しめられることになります。それは、この言葉です。
まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。
ガラテヤ6:7-8
聖書のいう撒く対象
聖書の言葉は確実であり、真実です。であれば、確かに「人は自分の撒いたものを刈り取る」ことになります。しかし、ここで書かれている撒くことの対象は、肉か霊かなのです。もし、自分の肉の働きに種を撒くのであれば、肉から滅びを刈り取ることになります。その肉というのは聖書によるとこういったものです。
肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。
ガラテヤ5:19-21
ここで書かれている肉の働きは神の御心に明確に敵対するようなものであり、決して自分の能力不足や弱さや失敗を通して撒かれたものではないのです。
神の恵み
だからといって甘えたらいいとも思いません。なぜなら、自分の能力不足や弱さや失敗が招いたことすべてが無条件にゆるされるわけではないからです。特に仕事などでは顧客からはプロとして見られているので、失敗はゆるされない場合がほとんどです。
責任を問われることももちろんあります。しかし、そこでしっかり反省して、次回から同じ失敗をしないように仕組み化するなりすることで、成長することができます。伝えたいことは、一回反省したら、それ以上、自分を責める必要はないということです。もし、神とともに歩むならば、神の恵みによって撒いたものを刈り取ることをさせて頂くことができることを体験しています。