環境が変われば人は変わる
ある面において、「環境が変われば自分が変わる」というのはあると思います。良い人間関係が育める友だちがいる。また学習環境の整った学校に行くのと、殺伐とした心の貧しい集団ばかりがいるところで、ろくに勉強もできないような環境だったら、学びにおいても心においても自分が変わり成長できるのは明らかに前者です。
しかし、環境を変えても変えられないものもあります。一つ目は自分自身の肉的な働きです。二つ目は分自身の心にある貧しさです。それは言い換えると、神でしか埋めることのできないぽっかりと空いた穴です。
環境が変わっても変わらないもの
一つ目に関して、僕は自分なりの努力で自分の肉的な働きをコントロールしようとしたことがあります。一時期ミニマリスト生活をしていた時がそうでした。出来る限り物を持たず、食にとらわれないように心がけました。ストア派の書籍を読んで、禁欲的に生きようとしたのです。自己啓発本を読んで、自身に節制に節制をくわえたのです。
結果、実はそれは本心から出た自然な行動ではなかったことが明らかになりました。一時的に肉的な働きを抑圧して、コントロールで来ているように思えていただけのものでした。言い換えれば、実は生き方に一貫性がなく、蓋をあければガバガバの思想だったのです。
変えられたいという動機
それから、少しづつではありますが、ようやく一人の大人として本当の意味で神様により頼む生き方を学んでいくようになりました。それは決して禁欲的なものではなく、イエス様が愛してくださっているから、イエス様を悲しませたくないという動機から生まれるものでした。
もちろん、聖書の基準は異常に高く、わずかな打率を上げるので精一杯の状態です。それであっても、失望に終わることはありません。なぜなら、毎回イエス様が励ましてくださるからです。禁欲的にではなく、イエス様の恵みによって生きることを失敗しながら教えて頂いているのです。
替えられる望み
それが結果的に、自分自身の心の貧しさに気づくきっかけにもなりました。イエス様がいない自分の心はどうしてこんなに醜いのだろう。どうしてこんなに貧しいのだろうと痛感させられたのです。そして、この貧しい心を満たしてくださるのは神様以外にはいないという確信にも至りました。
環境によって変えられる範囲は限定的です。しかし、神様には不可能はありません。心の深いところも造り変えてくださることを信じて歩んで行きます。