心の偏狭さ
僕は神様が恵み深いお方すぎるゆえに、「それは不公平です」と言いたくなる偏狭さを持っています。ある人、ある教会が恵まれていること自体には不公平さを感じませんが、例えば、「あの人はあーなのに、恵まれている」とか「あの教会はこーなのに、恵まれている」とか思ってしまうことがないわけではありません。「神様、それは不公平です」と言わないまでも、心の中でモヤモヤを抱えてしまうこともあったります。
しかし、聖書には明確にこのようにかかれています。
神はモーセに言われた、「わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ」。 ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである。
ローマ9:15-16
人間がどう思っていても、外野がどう思っていても、神様はご自身が思っておられる通りにされるということです。
不公平と言いたくなる状況
福音書でイエス様はこのような例話(マタイ20:1-16)をされました。朝から雇われて労働した者、昼から雇われて労働した者、夕方から雇われて労働した者たちがいました。雇い主は1日の終わりに、夕方から雇われた者に1日分の賃金を与えました。それを見た朝から雇われた者は自分は朝から働いているので、もっと賃金がもらえると期待しました。
しかし、雇い主が出した金額は当初の約束通りの1日分の賃金だったのです。それに対して、朝から雇われた者は不平不満を言います。ようは不公平だというのです。しかしそれに対して、雇い主は、このように言います。
そこで彼はそのひとりに答えて言った、『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。 自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。
マタイ20:13-14
ここにイエス様の憐れみ深さと、すでにイエス様と友になっている者の心の偏狭さが現れています。
価無しで受けた恵みと憐れみ
人間は独占したいという罪深さがあります。また自分は特別でありたいという願望も持っています。また、いつしか、価無しで受けたイエス様の恵みや憐れみはそれ相応の行いによって得られるものと勘違いしてしまうこともあります。それは熱心であればあるほど、真面目であればあるほど、強調されるものかもしれません。熱心でない人が恵まれているのはしゃくにさわったりするのです。
熱心かどうか、真面目かどうかは別にして、僕にはそういった心の偏狭さがあります。だから悔い改めて、造り変えて頂く必要があります。もし、イエス様の友であるなら、その哀れみや恵みが御心のとおりに広がっていくことを心から喜んでいけるようになるのだと思います。この聖書の言葉を心にとめつつ。
このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう。
マタイ20:16