0270_人新世の資本論を読んで

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大衆のアヘン

今、流行っている「人新世の資本論」という書籍を読みました。冒頭から、「SDGsは大衆のアヘン」という記載から大いにガッテンし、一気に読み進めてしまいました。レジ袋は使わないけれど、結局多くのエコバックが大量生産、大量消費される。EVも蓄電池の生産過程でCO2が大量に排出され、さらに消費の買い替え衝動を換気するだけで、根本的な解決にはならない、というのは本当にそうだと思いました。

各国がトップダウンで進めるグリーンニュディール政策も結局は、経済成長を前提としており石炭石油は消費されなくても、電気自動車に大量に使われるコバルトやリチウムが大量採取され、その結果周辺地域の生態系が破壊され、これまでと同じように、貧しい国からの搾取、転嫁、外部化が進むそうです。

2030年までにCO2排出量を今の半分に、さらに2050年にはゼロにしないと、この地球は回復できないまでに破壊されるというのが多くの科学者の意見なのですが、技術革新やこれから政策によって、実現可能とする楽観的に考えている経済学者も多くいる中で、著者の斎藤氏は、脱成長、低成長にシフトしないとこの不可逆的な流れには逆らえないと書いていました。

ゼロサム・ゲーム

「今、誰かが豊かな生活ができているのは、誰かが貧しい生活をしているから」これは間違いのないことでしょう。もちろん、数百年前に比べると世界において病気や不衛生、栄養失調で亡くなる人は減少したかもしれませんが、あくまでも、「相対的に」にすぎません。この世界はゼロサム・ゲームにすぎません。技術革新によりどれだけ生産性が向上して、パイの数が大きくなっても、一部の人が大量のパイを取り続ける構図はずっと同じです。

すでに世界中の人が十分に食べられる食料は生産されているにも関わらず、経済優先で、大量生産大量廃棄で必要な人のところへ食料が行き届かない世界は異常としか思いません。しかし、自分を見ても怖いと思うのは、そういったことをあえて見ないようにするというよりも、「市場がある、だから、富を求めればいい」という、それが資本主義なのだから、みんながそうしているのだから、と誰も深刻に考えずに生きてしまっていることだと思います。

新天地

気候変動、環境破壊、食糧危機、史上最大規模の天災などを耳にするたびに、耳を覆いたくなります。この地球はこの先どうなるのか?個人的には、自己中心的な人間が問題を未来に先送りせずに、今取り掛かり解決できるとはおもいません。もちろん、今個人的にできることはし続けなければなりません。しかし、聖書にはこのような希望の約束があります。

死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。
コリントⅠ 15:42-444

たとえ、地は滅びても、神の言だけが残り続けます。栄光あるものに、強いものに、霊のからだによみがえるのです。その希望をもちつつ、固く立って動かされないようにするのです。