負荷テストであらわになるもの
昨日の負荷テストに続けます。人は負荷テストによってはじめて自分が何を考えているかを自分で自覚することができます。いくら黙想や静かな時間や内省の時間をもっていたとしても、その時に思っていることが、本当の自分の考えとは限らないということです。
例えば、ある人が自分は環境保護に強い思いがあると思っているとします。しかし、それはそう思いたい自分がそう思っているだけで、本音は違うという場合があるということです。また、ある人が自分は家庭を大切にしていると思っていたとしても、無意識の心の深層では本当は仕事のほうを大切にしているという考えがあるかもしれません。
自分でも自分はわかっていない
そういった自分の本音や本当の考えは自分でも正確には自覚できていない場合が多いです。なぜなら、人は通常、「自分自身をまともな人間だと思いたいもの」なので、自分にはそんな悪い考えはないはずだと思いたいからです。その思い込みが実際の自分の本音とはかけ離れることがあるのです。
特に僕自身には、そういった傾向が強いと感じています。聖書には「聖くある」という状態に対して、厳しい基準が書かれています。人間は自然と一貫性を求める生き物なので、たとえ、聖書の言を自分が実行できていなかったとしても、実行できていると思ってしまうのです。
ヨブの負荷テスト
しかし、そういった自己弁護的な態度で信仰していても何の成長もありません。だからこそ、神は時に人に試練や負荷テストを与えて、自分が本当に何を考えているのかを明らかにされたりします。旧約聖書にもそういった記述があります。
特にヨブは確かに本当に神の前に聖なる者とされていた者でした。しかし、想像を絶するような強烈な負荷テストを神のゆるしの中で通らされ、彼は自分でも自覚したことのなかった自分の弱さや汚さに気づきます。
もし、ヨブが強烈な負荷テストを通らなかったら、彼は自分の本当の姿を知ることはなかったのです。
試練の先には
もし、今自分がつらいところにあると思うなら、ヨブの物語を思ってください。今とおらされている負荷テストはもっと神に近づくためにものです。またもっとキリストの似姿に近づくためのものです。神は無駄な試練は人には与えられません。その人の背丈にあった必要なテストを与えてくださるのです。
その試練をとおりこした暁には、さらに自身が聖められて、ヨブが体験したと同じ事が起こると信じています。
わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、
今はわたしの目であなたを拝見いたします。
それでわたしはみずから恨み、
ちり灰の中で悔います」。
ヨブ42:5^6