神の掟
聖書は神の言で、御言と言われています。一言に御言といっても聖書では様々な言い方がされています。例えば、みことば、神の言、み教え、おきて、悟りなどの表現があります。特に詩篇119編には多くの表現があり、特におきてという言葉が頻出します。
おきてにはこのような意味があります。
守るべきものとしてすでに定められている事柄。その社会の定め。決まり。また、法律。
この定義をみると、旧約聖書のモーセの律法を彷彿とさせます。たしかに聖書の言葉は守るべきものなのです。
掟がもたらすもの
じゃあ、なぜ守らないといけないか?というと、それは、神が人間に幸福にこの地上で住んでほしいと願っているからです。神の掟は、ストイックで人をがんじがらめにする戒律で人を縛ろうとされているのではなく、逆に人間が自由になるために必要なおきてなのです。
まことの自由とは、自分がしたいようにできる状態ではなくて、何にも縛られていない状態です。神は定められた掟によって人間を自由にしたいと願っておられます。そこで詩篇119編の作者は何度も「あなたのおきてを教えてください。」と懇願しているのです。
具体的には?
もし、厳しい戒律で縛られたくて掟を教えてくださいというのであれば、かなり奇特な人か変人でしょう。作者は神を愛するがゆえに掟を守りたいと思っていたのです。
具体的に神の掟は何でしょうか。モーセの十戒で有名なものもあります。さらに具体的にイエス・キリストが語られたことばもあります。また霊感を通してイエス様の弟子が書き残した言葉もあります。
例えば、山上の垂訓では「人をさばくな」とか「敵を愛せ」とかの掟があります。また、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。」という掟もあります。
これらは神が人間が自由になるために望んでおられることなのです。
掟を聞いてから
しかし、聖書を読んでいて思うことは、「わかっちゃいるけど入ってこない」という状態です。あるいは、「わかっちゃいるし、やろうとしているけどできない」という状態もあるかもしれません。
前者に対しては、聞いた御言を信仰によって受け止めて啓示になる必要があります。後者は聖霊の助けを求め続けて、かつ、日々訓練されることによって御霊の実が結ぶように成長する過程でできるようになってくると信じています。
あなたの義はとこしえに正しく、
あなたのおきてはまことです。
詩篇119:142