0612_自己矛盾した強い違和感は2つの選択を僕に迫り続ける

肉の性質

決して救われているだけで満足しているわけではなく、イエス様が自分に対して現わしてくださった愛をもって生きたいと強く願っています。しかし、日常生活で自分を見るとそのような愛は持ち合わせていないことを深く知ることになります。つらいのは、自分がイエス・キリストのように生きたい、また聖書の言が求める基準に従って生きたいと思っているにもかかわらず、それがほとんど全くできていないことです。

聖書にはこのように書かれています。

なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。
ガラテヤ5:17

強い違和感

肉の欲するところと御霊の欲するところが相さからっているのです。僕の肉の性質はなんでしょうか?例えば、おちょこならまだしも、リカちゃん人形のコップ並みに小さいキャパがかなり致命的です。これが、すべての非寛容さの源です。あとは個性で片付けることができない異常に偏狭な思想、自己中心的な気持ちです。また、油断すると湧いてくる不平不満な思いなどもあります。

正直、これらは氷山の一角で無自覚の肉の性質もまだまだあると思います。こういった肉の欲するところが日常生活のあらゆるところで表面化するのです。表面化したことで失望するというよりも、自己矛盾している自分や一貫性のない自分に強烈な違和感を感じることが多いです。

2つの選択

救われる以前はこの違和感すらありませんでした。しかし、この強烈な違和感は2つの選択を僕に提示します。一つは、肉の性質に従って生きること、もう一つは御霊に従っていきることです。自分自身は必ず肉の性質に従って生きることを強く望むでしょう。

だから、僕が選択できるのは、神の前に降参して「僕は肉に打ち勝つ力はありません。だから、御霊によって助けてください」と祈ることだけです。なぜなら、聖書にはこのような言があり、そのように生きる希望があるからです。

わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。
ガラテヤ5:16

おっさん
■迫られる選択は神の前に降参するか、どうか。

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