思い出すこと
自分がどういったところから救われたかをことあるごとに思い出すようにしています。聖書にはこのように書かれています。
「義を追い求め、主を尋ね求める者よ、わたしに聞け。
あなたがたの切り出された岩と、
あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ。
イザヤ51:1
誰にも目に留められることもなかった無価値な無機質の物質が荒々しい岩から切り出され、磨かれ、主にあって価値ある者とみなしてくださったのです。それは、まさに主の目に尊いダイヤモンドのような扱いでした。周りが無価値といおうとも、主は尊いとおっしゃってくださっているのです。
わたしの目には、あなたは高価で尊い。 わたしはあなたを愛している。
イザヤ43:4
思い出さないとどうなるか?
もし、意識的に過去の自分はどうたったのか?を思い出すことをしないようになると、次第に神様なしでも生きていけると勘違いをしてしまう危険性があることを経験的に知っています。時には今の自分があるのは自分の努力によるのだと思いこんでしまって、高慢になってしまいます。恵みからもれてしまうのです。
いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。
コリントⅠ4:7
それはエジプトの奴隷から解放されたにも関わらず、不平不満と文句を言い続けたイスラエルの民と同じ姿です。また、新約聖書のガラテヤ人への手紙で書かれているガラテヤ人と同じです。救いに与ったにもかかわらず、あっという間に主から離れてしまうのです。それだけ、人間は主に留まり続けるのが難しいのだと思います。
愛に留まり続けること
神様に近づく大きな要件の一つは、へりくだることです。もし、高ぶってしまっているなら、もはや神様の愛を感じることができなくなってしまいます。神様を愛したいという気持ちもなくなります。また周りの人を愛する愛は自分にはない、だからこそ、神様からその愛を受けて、周りの人を愛したいという気持ちもなくなってしまいます。
もし、今、自分が「神様、あなたを愛しています。」と言えない状態にあるなら、神様の愛から離れているかもしれません。あるいは、既に神様なしで自分で生きていけると思っているのかもしません。もし、自分が若い頃の純粋さを失ったように思えたとしても、世の中ってこういうものだよねっと冷めた気持ちがあったとしても、イエス様の愛は決して変わりません。