自分の記憶
明日は久しぶりに中国で日本語教師をしていた時の同僚と会う約束があり、とても楽しみにしています。というのも、日常生活を送っていると、中国にいた時の記憶が想起されることはほとんどなく、中国関連の友人に会うととても懐かしい気持ちになるからです。
もっとも、中国のパンチの効いたディープな環境での強烈な記憶でさえも通常は僕の頭の中で保存されているただの過去の情報にすぎません。静的な状態ともいえます。ですので、日常生活を送る中で、それ記憶自体が自分の感情に何か働きかけるということはありません。
新しくつくられる記憶
しかし、ひとたび、その記憶が何かによって刺激され、活性化され、呼び覚まされると、静が動に変わり、あっという間に中国にいるかのような感覚が発動します。その何かは過去の写真や映像などでは不十分です。同じ時間を共に過ごした人との会話によって発動されます。
双方が持っている記憶を出し合いつつ、自分が持っていない記憶は他者の目線による記憶で補完しつつ、新しい記憶を構築する作業なのです。だから、共にその時間を過ごした人と話をする機会は僕にとってとても貴重です。
対話によって構築される
今日は久しぶりに北京出身の中国人の方を話をする機会があり、北京に留学していた頃の記憶が刺激され、活性化され非常に懐かしい気持ちになりました。いわゆる、北京あるあるの話に花が咲くのです。北京のすし詰めのバスに乗るのが大変だとか、30分待ってもバスが来ないと思ったら同じ番号のバスが3台連ねてくるよねとか懐かしい記憶が呼び覚まされました。
今は日本にも中国人の方が大勢いらっしゃるので、わざわざ中国に行かなくても、双方の会話で新しい記憶を構築する楽しみを味わうことができるので、これもまたいいなと思いました。
記憶や認識の再構築
こういった事象があるように、過去の記憶は自分だけのものと思いつつも対話によって記憶や認識は変わるものです。ネガティブな側面でいうと、特定の偏った思想の動画をYoutubeなどで観ると、関連動画がレコメンドされて、次第に自分の過去の記憶や認識が変化するといったことが起こりうると思います。
しかし、ポジティブな面ではよい言葉に触れ続けることができれば、自分の過去の記憶や認識をよい方向に転換することができるということです。それは書籍を通してかもしれないし、誰かとの対話によってかもしれません。
いずれにしても、最も人間にとって必要な言葉は聖書の言葉だと思います。なぜなら、イエス様ご自身が、ご自身が語った言葉をいのちであり、霊であるとおっしゃったからです。
人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。
ヨハネ6:63