乳飲み子(詩篇)
聖書にはちのみご、みどりごという言葉が時々出てきます。例えば詩篇にはこのように記載されています。神様は、いわゆる生まれてまもない赤ちゃんによって褒め称えられているということです。
みどりごと、ちのみごとの口によって、
ほめたたえられています。
あなたは敵と恨みを晴らす者とを静めるため、
あだに備えて、とりでを設けられました。
詩篇8:2
また、別の詩篇の箇所にはこのように記載されています。赤ちゃんがお母さんの腕に抱かれて安心しきって、安らかに眠るように、天の父の腕に抱かれて安らかに眠る様子が描写されています。
わたしは安らかに伏し、また眠ります。
主よ、わたしを安らかにおらせてくださるのは、
ただあなただけです。
詩篇4:8
乳飲み子(ペテロⅠ)
また、新約聖書にはこのように記載されています。ここでも赤ちゃんのようになって、赤ちゃんがお乳を求めるように霊の乳を追い求めるように勧めています。
今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。
ペテロⅠ2:2
生まれたばかりの赤ちゃんは、一人で何もできません。話すことも動くこともできません。ただ、泣くことで意思表示をして、お乳を求めるのです。しかも、大人のように1日3回朝昼晩と決まった時間にお乳を飲みたがるわけでもありません。昼夜を問わず、1時間〜3時間くらいのスパンで泣いてお乳を飲みたがるのです。お乳が与えられない間は大泣きしますが、与えられると大いに満足し、先の詩篇のように安らかに眠ります。
赤ちゃんというたとえ
聖書が様々な箇所で、クリスチャンを赤ちゃんに例えているのは、神様と人間の関係がまさにそういった関係であるからだと思います。クリスチャンは自分自身ではなにもすることができません。イエス様自身でさえ、福音書で「自分からは何事もすることができない。父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするのである。」とおっしゃているのでなおさらです。
しかし、自分自身を見てつくづく思うのは、どれだけ「自分は自分でできる」と思い込んでいるかということです。自分ができていると思うのは、自分がしたいようにすることを自分でできているだけであって、神様の御心を知ってそれができているとは限りません。
赤ちゃんに必要なこと
別の箇所では、「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。」(ヨハネ15:4)ともおっしゃっています。
赤ちゃんが泣き叫ぶほか何もできないけれども、必ずお母さんが気づいてお乳を与えて、満足させ安らかにさせてくださるように、神様も赤ちゃんのように昼も夜も叫び求める民に必ず、満足と安らぎを与えてくださると信じます。