微差の積み重ね
何か目標があって、それに向かって継続的に取り組んでいたとしても、すぐに結果が出ることはあまり多くないように思います。自然の原則は野菜や穀物が育つスピードであり、人間の変化も今日やって明日というわけにはいきません。もしかしたら0.1ミリの超薄紙を毎日重ねていくようなものかもしれませんが、10日で1ミリの高さ、100日で1センチ、1000日で1メートルと3年くらい経過すると遠くから見てもはっきり見えるようになるような感じです。
自分自身はその薄紙の近くにいるから、100日くらいの1センチで自分の変化に気づくかもしれません。しかし、遠くにいる周りが「ん?あの人変わったね」となるのは、やはり3年はかかるのかなと思っています。
以前撒いたもので今日を刈り取る
以前、10代で学んだことで、20代を刈り取る。20代で学んだことで30代を刈り取るという言葉を聞いたことがあります。10代で経験したことや学んだことで20代を生き抜くということです。それは微差の積み重ねに通ずるところがあります。やはり、20代で学んだことが、すぐに20代の時に生かされるかどうかは別の話だということです。
もちろん、即効性のあるテクニックもあるかもしれません。実際にそのテクニックで成功したり、大金を稼ぐ人もいるかもしれません。しかし、小手先のテクニック系は原理原則から外れる場合が多くあり、時間が経つと使い物にならなくなる場合が多いのです。
自然のスピードを知る
この微差の積み重ねの速度が体に染み込むと、何の変化が見えないように思える期間をなんとも思わなくなり、愚直に継続し続けることができます。個人的には昨年の12月からダイエットを始めましたが、3ヶ月経過してもなかなか数字に結果が現れずに何のために走ったり、筋トレして苦しい思いをしているんだろうと思ったことがありました。
ただ、愚直に、もはや機械のようにルーティンを繰り返すことで、5ヶ月目〜6ヶ月目あたりから、数字にも瞬間風速的でない数字が継続的に出てくるようになりました。おそらく、今やめるとすぐに体力も落ちてしまうので、基礎体力を体につけるには3年くらいの期間が必要なんだろうと思っています。
主の荷姿へと
信仰生活はまさに微差の積み重ねです。クリスチャンの目標であるイエス様の似姿になるのは、正直ハードルが高すぎます。福音書に書いてあるイエス様のような生き方は神以外にありません。たとえ、罪を悔い改めて救われる体験をして、明確に救われた子を経験したとしても、その後、日常の引力に負けてしまい「救われても何も変わらんやん」とさじを投げてしまったら、それで終わりです。
実際、僕にはそういった幻滅や失望の気持ちが起こらなかったわけではありません。依然として、弱いし、情けないし、罪深い人間だけれども、「こんな者をあなたによって造り変えてください」、いや「あなたご自身が私の心の中に住んで支配してください」と明け渡し続けることが、目に見えないような積み重ねで主の似姿に近づいていくんだと希望をもっています。