日常生活は悪くない
残念ながら生活習慣の改善が思うように進んでいません。GW中から遅くても6時起床を習慣にしていたのに、GW明けから1時間も2時間も多く寝てしまっています。しかもやっかいなのが多く寝たら寝たでその日一日は目が冴えて、よい集中力で仕事ができるので割と悪くなかったりします。
でも、早寝早起きの最大の目的は仕事のクオリティーを上げるためではありません。もちろん、自己成長のためでもありません。ただ主との祈りと御言の時間をしっかりとることです。正直、早朝の祈りや御言の時間をとらなかったとしても、また仮に自分自身の心が主から離れているな、と思うことがあっても、経験上即座に仕事のパフォーマンスやQOLが著しく低下することはありません。
なので、日常生活も仕事もはぼちぼちいっている状態で、そのまま生活し続け、つむところまでつんでしまって、ようやく、あー自分は主から離れてしまっていたんだと気づくことが多いです。
気をつけないといけない信仰姿勢
最近問われているのは、主が共にいてくださることをなぜ自分は望んでいるのか?ということです。自分自身が祝福されたいから恵まれたいからなのでしょうか。具体的な生活の中に祝福がほしいから、例えば、経済が祝福され、仕事が祝福され、人間関係が祝福され、家庭が祝福されるなど。
ヤコブが主の祝福を求めて主と格闘したように、こういった願望も悪くないように思います。しかし、そういった祝福を与える者と与えられる者だけの関係になってしまうと、もし祝福がない時はどうなるのでしょうか。この世のご利益宗教と全く同じになってしまいます。
主との正しい関係
主との正しい関係は、愛の関係であり、罪を救ってくださった方と救われた者との関係です。そして、神の子なるイエス様が人となって、へりくだって、しもべとして人に仕えられたように、次は僕自身がイエス様のしもべとなって使える番です。
神に召された者は神の民と言われていますが、どちらかといえば、神の民と言われるよりも、神のしもべであり続けたいです。これはだたの認識の問題なのですが、神様との関係で重要な影響を及ぼすと思っています。
なぜなら、気をつけないと「イエス様は友達」という認識だけだと主との関係がずれていく可能性があるからです。もちろん、イエス様は友なき者の友です。救われた者は神の民です。しかし、イエス様がしもべであったように、やはり神のしもべと、高慢にならずに生きていきたいと強く思わされました。
■イエス様は友なき者の友であり、救われた者は神の民であることは間違いない
■しかし、イエス様がしもべとして歩まれたように、しもべという認識も持つことが大切だろう