天のふるさと
聖書には人間にとって地上での生活はあくまでも仮住まいで、最終的には天の故郷に帰ると教えています。人は地上では旅人であり、寄留者であるから、故郷に帰ることを希望にして生きるのです。地上での不完全な体が、その時には、栄光の体に変えられます。地上で撒かれた自分という種が、その時には栄光の形としてよみがえるのです。
そんなことありえるか!と思いたくもなりますが、これこそが人間の死に対する疑問の答えになるのです。言いようのない恐怖、個としての存在の消滅の違和感、それら問題がすべてが氷解するのです。孔子は弟子に死について問われた時、「死について考える以前に、自分はまだ生きることもわかっていない」と答えたそうです。しかし、死は誰に対しても平等で必ず訪れるものです。どれだけ、テクノロジーやバイオテクノロジーが発達しても、死は克服できないのです。
個が消滅する不自然
岩波文庫から出版されている「聞けわだつみの声」という書籍があります。この書籍には第二次世界大戦で学徒動員された学生たちの苦悩がありのままに記載されています。前途多望な優秀な若い学生たちが神風特攻隊や回天など突撃攻撃に強制されました。彼らが残した手紙や日記には特攻攻撃に対する疑問がありのままに記されています。国という主体のない抽象的な存在のために、自分という具体的な個体が死ぬことに違和感を感じているのです。
自然の営みとして、食物連鎖があり、いずれに死に、地に帰るのは理解できますが、人間は動植物ではありません。動物の延長線上に人間がいるのではなく、人間は人間として創造され、かつ、神に似せて造られた(霊的な存在として)ため、人間には動物にはない魂があるのです。
地上でしたいこと
魂はいずれ天に帰る以上、今は地上での生活に力をいれなければなりません。人間は神の良い作品として創造されており、一人一人に地上でやるべきことが必ずあります。その中には、社会を構成する一人として、役割を果たすだけでなく、神様のためにすべきことがあります。それは、福音を伝えることであり、イエス・キリストの恵みを告げ知らせることであり、人々の心に平安を与えることです。
今の僕は、仕事や生活の忙しさに怠けてしまっていて、福音を個人的に伝えるということができていません。福音には不思議な力があり、福音を伝える時には神様が共にいてくださることを、強く感じることができます。そして、神様が喜んでくださることがよくわかります。それは、インマヌエルの神、共にいる神が日常的に共にいてくださるそれとは異なり、特別な祝福です。
昨日からアドベント(待降節)が始まりましたが、福音を伝える絶好のチャンスです。今年のクリスマスこそは誰かに対面で福音を語れるように祈っています。