0210_痛みを伴う聖書の読み方

御言と対峙すること

僕は試練がないとなかなかイエス・キリストに助けを求めようとしない人間です。聖書を読んで誰かと分かち合いをして、「聖書に書いてあるとおり、〇〇ができるように祈り求めていきたいです。」とか「〇〇がしたように、自分もイエス様をもっと求めていきたい」などと言いますが、僕の場合、こういうことを発言した時、ほぼ100%の確率で、祈り求めることもしないし、もっと求めるようなこともしません。聖書の御言を表面的に受け取って、御言と対峙することなく、神様と上っ面の関係を築こうとしてしまっているのです。

岩の上に家を建てた人とは、御言を聞いて、それを行う人です。御言を読んで、聞いても、それを実際生活の具体的な行動に落とし込まない限り、それは、砂の上に家を建てた人と全く変わりませんん。僕はしばしば砂の上に家ばかり建ててしまうのです。

聞いて実行すること

中国の著名な伝道師であるウォッチマン・ニーは救われてほしい人の名前をノートに書いて毎日祈り続けたそうです。そして、一人以外全員が救われたというのです。御言を読んで、実際に祈ることと、さらには祈り続けることは簡単なことではないと感じます。さらに祈りに関連した実際的な行動にまで落とし込むのには自分を訓練する必要があるように感じています。

僕の場合、誰かに「祈っていますね」と言った場合、ほとんどの場合祈らないのです。言った矢先に忘れてしまい、ふとした時に思い出して祈れれば、まだいいほうです。イスラエル民族が出エジプトしてから約束の地に入るまで、神様に不平不満を言い続けました。その不信仰の結果、2名を残す以外同世代すべて約束の地に入れなかったのですが、僕は確実に2名以外に該当するほうの人間だと思います。

到底実行できない教え

聖書の中で、特にイエス・キリストの教えは難易度が高すぎて、神の前に降参するしかないようなものばかりです。良きサマリヤ人の話、敵する者のために祈ること、僕には到底できないのは痛いほどわかっています。

でも、こういったイエス・キリストの言葉をただの教訓として聞くだけで実際の行動に落とし込めなかったら、読まないほうがましとまで思います。ですから、聞いて終わるだけでなく、自分に死んで、悔い改めて、イエス・キリストにすがり、訓練されて造り変えられたいと思います。

御言に対峙するとき、自己否定が始まり、強い拒否反応と痛みが伴いますが、それが、神様に近づく第一歩になると感じています。