子どもの心
親になってみてますます言うは易く行うは難しと思うようになりました。それは、僕が親になる前は「物質的なものでは子どもの心を満足させることができない」とわかっていたのにもかかわらず、実際には「子どもに物を与えたら喜んでくれるので、物を与えることが子どもにとっていいことだ」と勘違いしてしまっていることがあったからです。
物を与えると確かに喜ぶことでしょう。しかし、物を与えようとする僕の動機の裏には「それをするほうが楽」という自己中心性があるのです。たとえば、週末疲れているとします。僕は時に炎天下の中、子どもと公園で一緒に走り回るよりも、イオンのような涼しいところに行っておいしいものを食べたり何か買ってあげるほうを選ぼうとするのです。
最上の喜び
しかし、子どもの反応を見て思います。子どもはおいしいものを食べるよりもなにかほしいものを買ってもらうよりも親と一緒に過ごすことを最上の喜びとしています。一緒にごっこ遊びをしたり、本を読んだり、走りまわったりすることで子どもの心が満たされるのです。
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しかし、僕は時に「眠いから」とか「つかれているから」と言って子どもと積極的に一緒に過ごそうとしないことがあります。よく考えてみれば子どもから「一緒にあそぼ」と誘ってもらえるのはあと数年くらいです。あっという間に友だちと遊びに行くようになります。だから今一緒に過ごさずいつ一緒に過ごすのかと自分を戒めました。
心が満たされる
先日は子どもがクレープを食べたいというので買いに行きました。僕はそれを食べたらおうちに帰ってゆっくりするつもりだったのですが、子どもははっきりと「まだ満足していない」と言いました。そして、僕が「どこに行きたいの?」と聞くと、彼は家の近くにある電車が見える公園に行きたいと言います。
そんなことで子どもと二人で公園に行きました。数か月猛暑が続いていたので屋外で二人でゆっくり遊ぶのは久しぶりです。電車を見たり、アリの行列を目で追いかけてみたり、水たまりを触ったり、柔らかい土を棒で触ったり、遊具で遊んだり、追いかけっこをしたり、あっという間に2時間が経過しました。その時に、僕の心も満たされているのを感じました。子どももきっと同じだったと思います。
一緒に過ごす
僕は自身の父の体験から天の父を想像することはでいきないと思っています。それは天の父の愛があまりにも大きすぎるからです。しかし、自身の父としての体験から補助的に天の父を想像することはできると思っています。僕は天の父との愛の関係も「一緒に過ごす」ということが最上の喜びなのではないかと思いました。
仕えること、奉仕すること、福音を伝えること、どれも大切です。しかし、天の父の最上の喜びは僕たち一人ひとりとの1対1との関係なのだと思います。
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