パブリックな祈り
礼拝などでパブリックな祈りが求められる時、僕は緊張します。それは人にどのように思われるのか?やうまく祈れなかったらどうしよう?と思うからではありません。緊張するのは主の前に真実な正直な自分を出せるかが問われるからです。
人間関係と同じように神様との関係も真実な心がなければ、祈りの言葉がどれだけ多くても、また表現豊かで御言が引用されていても、それは空しい祈りです。自分の真実な心が伴っていない嘘偽りの言葉が神様の前に響くのはおそろしいことです。
パブリックな祈りに関する前提
パブリックな祈りに関する前提は下記にこの2点になると思います。一つはイエス様の十字架の血潮によって神様に祈りが届く状態になっていること、そして、聖霊自らが導いてくれる祈りになることです。この前者においては、正直な気持ちが揺れることがあります。
それは、自分の罪を認めたくないと言った気持ちが時々あるからです。それは何も悪行、犯罪などではありません。ただ、心にねたみの心や何か腹が立つような思いがある時に主の前に真実に慣れない時があるのです。
だから、パブリックな祈りは人を悔い改めに導きます。悔い改めなしでは十字架の血潮によって主に祈りが届く状態にならないからです。
どこまで自分の真実さを含めるか?
そして、僕はこのように考えることがあります。パブリックな祈りに「どこまで自分の真実さを含めるか?」です。たとえば、へりくだって、悔い改めから入り十字架の血潮に感謝するところから入るのか?あるいは、すでに聖められた義なる者とさせていただいている前提で祈るか?です。
もしかしたら、パブリックな祈りでは悔い改めから入るのはあまりよろしくないと思われるかもしれません。それは人間の負の側面は弱さ、時には不信仰が強調されるからです。だから、僕はどういのるか?について考えることがあります。
聖霊自らが導いてもらう
この考えによる聖書の答えは上述したように「聖霊自らが導いてもらう」にかかっています。しかし、聖書の他の箇所にもヒントがあります。それは、主にダビデが書いた詩篇です。これはまさしくパブリックなものでした。
彼は「お前は不信仰者か」と糾弾されそうな悔い改め、へりくだりから入り、主を褒め称え、賛美しているのです。つまり、必ずしも今ある救われた状態だけを前提に祈る必要はないということです。むしろ、人間の弱さ、不信仰が語られる時に主の強さ、助け主の強さが強調されるのです。
聖霊の導き
とはいっても、聖霊に導かれていない状態で、「私は弱いです。駄目です。」と祈ったところで、それもまた違います。パブリックな祈りをする時は聖霊の導きを求めて祈りたいです。













