主の恵みの中
クリスチャンは主の恵みの中を生きています。主の恵みは魚にとっての水のようなものだと思います。魚は水なしでは生きていくことはできません。水はなくてはならないものでありながらも、当たり前のように存在しています。
主の十字架の恵みも同じです。人は主の恵みなしでは生きていくことはできません。主の恵みは人にとってなくてはならないものですが、いつでも受け取ることができます。なぜなら、イエス様が途方もないほどの犠牲を払って既に十字架の御わざを成し遂げてくださったからです。恵みを受けたいと思えばいつでも受けられます。
人間の肉は主の恵みが嫌い
クリスチャン生活は主の恵みからはじまり、恵みの中を生き、恵みの中で人生を終えます。しかし、誤解を恐れずに書けば、主の恵みの中に留まり続けることは容易なことではありません。むしろ、人は主の恵みから簡単に落ちてしまうものです。
なぜなら、主の恵みは悔い改めた、へりくだった、砕かれた魂にだけ注がれるものだからです。しかし、人間の肉はそれに対して激しく抵抗します。つまり、人間の肉は主の恵みが嫌いなのです。恵みではなくて自分の能力や努力に認めたがるものです。これは言いかえれば律法主義です。時には主がしてくださったことを自分がしたとして横取りしてしまうことすらあります。これは僕自身の体験として書いています。
恵みの中を生きているのが妬ましい
そして、恵みから落ちているクリスチャンの特徴もあります。それは、恵まれている人を妬ましく見るということです。これも自身の経験から書いています。これはまさに律法学者、パリサイ人と全く同じです。彼らがイエス様や弟子たちを妬ましく思ったのは、群衆がイエス様のほうへ流れていったということもあると思いますが、彼らが主の恵みの中を歩んでいたということもあると思います。
自分たちは厳格に律法を守ってかろうじて義とされていると思い込んでいたのに、イエス様一派たちはそんなこともせずに恵みの中を生きているのが妬ましくおもったのだろうと思います。
恵まれる秘訣
クリスチャンにとって誰かのために祈ること、誰かのために仕えること、奉仕すること、時間を使うことは大切です。しかし、それは自分自身が恵まれているという前提があると思います。時にクリスチャンは利他的であるべきと思いすぎ、自分が恵まれることをないがしろにしてしまうことがあるのではないかと思っています。
自分が恵まれる秘訣は一つだけだと思っています。それは一人部屋にこもって主と一対一で祈ることです。