1529_主に従っていきたいと思う人が受け入れるべき御言

可処分時間に関して

僕はこのブログで与えられている可処分時間は有意義に使いたいということを書いてきました。具体的に書けばだらだらテレビは見ない、スマホは必要な時以外触らない、SNSは情報収集以外では触らない、などを実行しようとしてきました。もちろん、別にこれらが決して悪い時間の使い方だとは思いません。堅苦しい生き方だと思われるかもしれませんが、目的意識があって自制できるのであればいいと思っています。

時間の使い方の選別に関していえば、社会人の可処分時間は数時間しかありません。つまり何かをしたければ何かを捨てなければなりません。僕はこれまで自分の取捨選択に比較的満足していました。

まだ無駄が多い

しかし、主の取り扱いを受ける中で教えられたことは「まだ無駄が多い」ということでした。僕は必要だ、目的意識を持って時間を使っている、有意義だと思っていたとしても主の御心がそうではないことがあると知りました。主の取り扱いの中で無抵抗に委ねていくとさらに余計なものが根こそぎ落ちていくのを感じました。

そうなると、本当に自分に必要なものがより鮮明になってきたのです。もちろん、これまでも「自分に必要なのは主だ」と思っていましたが、そう思っているだけで行動が伴っていなかったのです。余計なものがなくなると当然透明度が増します。それによって生活が研ぎ澄まされていくのを感じたのです。

自己啓発の範囲内

僕がこれまでやろうとしていたのは努力や自己啓発の範囲内のものであったということがはっきりわかりました。表面的に見ればまぁできているように思えますが、本質的なところにおいては全くできていなかったというのが教えられたことでした。

僕は数週間前に、自分のやっていることは結局クリスチャンごっこなのではいかという自問をしました。

1508_結局僕がやっていることは「クリスチャンごっこ」に過ぎないのではないか?

自分がそう思っていた意味がなんとなく分かってきたように思います。

民はひと言も彼に答えなかった

僕も受け入れがたい、耳をおおいたいと思うようなことを書きます。結局、本当に主に従っていきたいと思う人はこの言葉を受け入れることに尽きるのではないかと思います。

そのときエリヤはすべての民に近づいて言った、「あなたがたはいつまで二つのものの間に迷っているのですか。主が神ならばそれに従いなさい。しかしバアルが神ならば、それに従いなさい」。民はひと言も彼に答えなかった。
列王記上18:21

「民はひと事も彼に応えなかった」

僕はずっとこの民の一人であったのだと思います。

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