1492_聖書に書いてあるからといって模倣してもいいとはならない

昨日、僕はサムエル記上27章のダビデの行動から、この地上で生きるには知恵が必要だと書きました。そして、その知恵には時には嘘をつく必要があることもあると書きました。じゃあ、聖書に書いてあるから、嘘をついてもいいのか?となるのですが、決してそうではないと思います。

なぜなら、聖書はありのままに書いているだけであって、当然のことながら聖書に書いてあるからといって模倣してもいいとはならないからです。ダビデは主の御心にかなった者でしたが、時に弱さゆえに失敗や罪を犯すこともありました。

ペテロもこうだったから

これは自戒を込めてかきますが、聖書に書いてあるからといってそれを自分になんでも適用してはいけないということです。時々クリスチャンからこのような言葉を聞くことがあります。それは「ダビデもこうだったから」や「ペテロもこうだったから」というものです。

その言葉の背景には「彼らとてこうだったのだから、ましてや凡人である私も同じような過ちを犯してしまって当然だ」という自己弁護の思いが見え隠れします。これは僕自身気を付けないといけいないと思っています。もし、そ聖書の失敗を半面教師とせずに、逆に失敗をありのまま自分に適用するようになればとんでもない方向に行ってしまう危険性があるからです。

アブラハムを仰ぎ望め!?

確かに、旧約聖書新約聖書問わず、すべての人は失敗し罪を犯しています。たとえ記述がなかったとしても人間であれば必ずそうです。しかし、聖書に登場する人物の中で唯一、その記述すべてを自身に適用してもいいという人がいます。それはイエスキリストです。

だから、聖書は信仰の父であるアブラハムを仰ぎ望めとは書いていません。天の父の御心にかなったダビデを仰ぎ望めとも書いていません。聖書はイエス・キリストだけを仰ぎ望めと書いています。

信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。
へブル12:2

主を追求し続ける「動機」

そうするとこのような声が聞こえてきそうです。それは「神になることと同じだ。人間には無理なこともある。」それはその通りだと思います。もちろん、神になる必要はありません。

求めるべきことは神のようになるのではなく、この地上で神の似姿に変えられることを「追求し続ける」ことだと思います。それができたとかできなかったとかは関係ないと思います。なぜなら、それは、主を追求し続ける「動機」になるからです。だから、大人になっても、経済的に独立しても、何か自分でできるようになったと思ったとしても、いつでも、この内面は主によって変えられ続けないといけないという思いが湧いてくるのだと思います。

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