1割がすべてを台無しにする人
昨日は「他人の振り見て我が振り直せ」に関して書きました。これまで生きてきた中で、経験上100人に1人くらいの割合でこういう人がいることに気づきました。それは「その人の9割以上はいいのに、残りの1割だけが非常に悪くて、その1割が残りの9割をすべて台無しにまでしてしまっている」という人です。
たとえば、僕の中で「感情むき出しで激怒する人」はそういう人です。どれだけ仕事ができて、親切で、思いやりがあり、協力的な人であっても、ふとした時に激怒して怒鳴り散らす人と付き合うのはかなり難しいと感じています。激怒する時に、それまで称賛や尊敬に値するような親切心や協力的な心は一瞬で揮発してしまうのです。
信頼残高が一瞬でなくなる
あるいは、僕の中で「人のあら捜しばかりする人」もそういう人です。どれだけ献身的で犠牲的な人であっても、「もうそんな小さいことええやん!」と思いたくなる人と付き合うのは難しいと感じています。業務や奉仕を遂行するのに人の強みではなく弱みや欠点ばかりに注目するだけでなく、実際に口頭で指摘する人とはほとんど一緒に何かをするのが難しいです。
「その人の9割以上はいいのに、残りの1割だけが非常に悪くて、その1割が残りの9割をすべて台無しにまでしてしまっている」人は、これまで積み重ねてきた信頼残高が大量にあったとしても、こういった一つの出来事で一気に残高を引き出してしまうことがあるということです。
誰のことか?
とあたかも高みの見物で他人のことを書いているように見えますが、これは僕自身です。僕はこれまで上述したような出来事を通して信頼残高を空っぽにして人生を積みかけたことがこれまで何度かありました。なぜ今積んでいないかというと、それは神様の憐れみがあったからにほかなりません。
これまで多くの失敗をしてきたからこそ、これからはそういった人間にはなりたくないと心から強く思っています。そして、神様に喜ばれるだけでなく、周りにも良い影響与えたり良い実を結ぶ生き方がしたいと思っているからこそ、僕にはイエス様が必要だとおもっています。
ペンテコステの力
僕がこの前電車に乗っていた時にこのような祈りの言葉が来ました。それは「これまではペテロの失敗やヨハネが怒りっぽい人であることに安心感と親近感を覚えていたけど、これからはペンテコステ以降のペテロやヨハネのような生き方を求めたい」ということです。
僕はペンテコステの力でイエス・キリストにあって変わり続けることができると信じます。